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少女ヌード写真集のこと

児童ポルノの単純所持を禁止する法案が今国会で成立する見込みである。
今回はマンガやアニメは規制にかからないらしいが、実在児童を扱った写真集は単純所持も禁止される。
この機会に、いわゆる少女ヌード写真集というものについて、その時代を知っているものとして証言をしておきたい。

少女ヌード写真集というのは1960年代末から1999年に「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」と言う長い名前の法律が施行されるまでの間に出版された、少女を被写体にしたヌード写真集の総称である。
1969年に出た剣持加津夫の「ニンフェット 12歳の神話」が嚆矢だということになっている。
その後、石川洋司や清岡純子らの写真集がブームになって相当の数の写真集が発売された。
そのほとんどが今回の規制には引っかかるはずである。

当時の少女写真集はそもそも「ポルノ」だったのだろうか。
児童ポルノに厳しいと言われる欧米でも未成年のヌードが写っていれば即「児童ポルノ」だとはみなされるわけではない。
試しにアメリカのアマゾンでDavid Hamiltonの名前で検索をかけると普通に少女写真集が出てくる。
Jacques BourboulonでもJacques Suterでも出てくる。
モデルがみんな未成年なのかどうかまでは知らないが、少なくとも何人かは未成年だろう。
「アート」とみなされれば禁止はされないのである。
では当時の「少女ヌード写真集」は「アート」だったのだろうか。
もちろん当時相当数の少女ヌード写真集が発表されたので、玉石混交ではあったろうが、僕の知っている限り「アート」と言っていいものが多かったように思う。
少なくともJacques Bourboulonあたりまで「アート」だと言うなら、あの頃の少女ヌード写真集はたいてい「アート」と名乗ってよかったはずだ。
例えば、剣持加津夫の「ニンフェット 12歳の神話」を当時僕は見ているが、全く下卑たところのない歴然としたアート作品である。
その後の写真集はより通俗的なものになっていったのだが、多くの写真集はアートの範疇に入っていたと思う。

しかし「アート」という言葉は個人の主観で大きく定義が変わるものだし、第一「アート」だから「ポルノ」ではないとは言えない。
トム・オヴ・フィンランドのゲイ・イラストがアートであることに反論する人はあまりいないと思うが(いるかな?)、あれは歴然と「ポルノ」でもある。

それよりも客観的な指標がある。
「エロ本」と「一般書籍」という区分である。
今ほどゾーニングということが言われていなかった時代でも「エロ本」と「一般書籍」は棚が別だった。
上品な本屋にはそもそも「エロ本」のコーナーそのものがなかった。
では、少女ヌード写真集はどちらの扱いだったか。
僕の記憶ではある時期までの少女ヌード写真集はたいてい「一般書籍」だった。
上品な本屋でも売っていた。
力武靖の写真集は最初から「エロ本」の棚だったし、他にも「エロ本」扱いの本もあったかもしれないが、たいていの写真集は「一般書籍」であり、写真集の棚に普通に置かれていた。
だいたい「アイドル写真集のややアート寄り」くらいの扱いではなかったか。
当時の少女ヌード写真集はれっきとした表文化だったのである。
少女ヌード写真集の書評が写真雑誌に掲載されることもあった。
それは「エロ本」ならありえないことだった。
それが十把一絡げに「児童ポルノ」という禍々しい名前のレッテルを貼られることに僕は違和感を感じる。

売る方がどう思っていても、買う方は「ポルノ」として買ったのではないか、という議論もありうるかもしれない。
しかしそれを言えば、アイドルの水着写真集をポルノとして買う人も、大相撲のDVDをポルノとして買う人もいるだろう。
買う側の意識はまちまちであり、一概には言えない。
問題はその時代の社会がそれをどうみなしていたかである。
当時の社会の中では少女ヌード写真集は決して「児童ポルノ」という扱いではなかったと思う。

僕がその名称にこだわるのは、それらの写真集に「児童ポルノ」というレッテルを貼ることが果たしてモデルになった女性たちの人権にプラスになるのかどうか甚だ疑問だからである。
それが「アート」であれば、その女性は「かつてアート写真のモデルになったことのある女性」であり、写真家は「アーティスト」であり、女性の親は「娘がアート写真の被写体になるのを認めた親」である。
しかしそれが「児童ポルノ」であれば、女性は「児童ポルノの被害者」であり、写真家は「児童ポルノの制作者」であり、女性の親は「娘を児童ポルノに出演させた親」である。
このレッテルの貼り替えが、本当に本人の望むことなのだろうか。

もちろん、中には当時少女ヌード写真集のモデルになったことを後悔していて、写真集も出来ればすべて破棄してほしいと思っている女性もいるだろう。
そもそも少女ヌード写真集はそういう写真集に出演することの是非を判断できない年齢であるモデルを使っていることに問題があり、だからこそ今新しくそういう写真集を作ることが出来ないことについては当然であると思っている。
しかし、すでに存在する写真集については、それが当時社会的に認知されていたものだったことを考慮すべきだろう。

僕は当時モデルだった女性の名誉は、それが当時社会的に認められたアート作品であったということのよってなされるのが本筋だと思う。
少女時代にモデルになったことを誇りに思っている女性は当然いるはずなのである。
当時の写真集が全て破棄されれば、その検証すら出来なくなってしまう。
それが正しいことだとは僕には思えないのだ。
もちろん世の中には本物の「児童ポルノ」が存在していることは知っているし、そういうものに関しては単純所持も禁止してかまわないと思う。
しかし単純所持の禁止という強い制限を設けるなら、その線引はもう少し丁寧にするべきもののはずだ。
当時の少女ヌード写真集にしても先に書いたように玉石混交なものであったはずので、一冊一冊について丁寧に検討すべきものではないかと思う。

最近「児童ポルノ」を「児童性虐待記録物」と言い換えようという動きも出ていて、僕もそれに賛成である。
そして当時の少女ヌード写真集の多くは少なくとも「児童性虐待記録物」ではなかったと思うのだ。
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よい子のまん個展、あるいは何故性器にモザイクをかけてはいけないか。(その2)

いかに「薄消し」であろうと、そこにモザイクがあれば、その部分は「わいせつなもの」というレッテルが常に張られた状態にある。
マンガの修正も同様だ。
どれほど形骸化した何も隠していないような修正でも、それがあるということは、この部分は「わいせつ」です、といちいち註を付けているようなものなのである。

性器は自然な身体の一部である。
それがエロティックな文脈で語られる場合であっても、性器だけがエロティックなものであるわけではなく、他の身体の部分と組み合わさって性的な意味を持つのである。
まして、特にエロティックな文脈ではない場合でさえ修正が必要である理由は、刑法175条を前提としても皆無であることは明白である。

日活ロマンポルノの時代にはまだ性器を隠す文化というものが支配的であった。
女優も男優も前張りというものをつけて演技した。
撮影現場ですら性器は隠されていたのである。
(今でもピンク映画はそうであるらしい。)
しかし、AVや成年マンガにはそういう隠す文化はもはや存在しない。
修正を加えられた状態でも、性器は結合状態も含めて明示されている。
その性器にいちいち「これはわいせつなものです」というレッテルを貼ることが現在義務づけられているのである。
そのことがそれを享受する人間の身体観を損なうことは容易に想像されよう。
性器だけが「わいせつ」だとする身体観は明らかに歪んだ身体観である。

そもそも大人が大人の性器を見ることに何の問題があるというのだろうか。
あるいは、よしんば未成年が見ることがあるにしてもゾーニングによって未成年の目から遠ざけるべきなのは「性器の正確な形状」ではないだろう。

もっともモザイクなり修正なりがあることでわいせつ感が増す、ということを肯定的に捉える人がいることも事実である。
隠されているからこそエロい、という立場である。
AVや成年マンガの視聴者、読者が必ずしも修正に否定的ではない一因はそこにあるだろう。
修正された性器に「わいせつ」を感じるというのは一種の倒錯である。
倒錯は人間の性的多様性を確保する上で必ずしも否定すべきものではない。
問題は、その倒錯を国家によって強いられている、という現状なのだ。
なにが「わいせつ」かを決めるのはあなたである。
あなたが足の裏が「わいせつ」だと思うなら足の裏が「わいせつ」なのであり、鎖骨が「わいせつ」だと思うなら鎖骨が「わいせつ」なのである。
それは人に決めてもらうものではない。
自分の「わいせつ」くらい自分で決めるべきなのだ。
そして、性器は自然な身体の一部という本来あるべき姿に戻してあげよう。

長々と書いたのは、僕が常日頃思っていることである。
しかしろくでなし子さんが作品を通して訴えているのもまさにそういうことだと思うのである。
そこに僕は共感するし、それを端的に訴えている彼女の作品は、見るものの認識を大らかな笑いとともに改めさせる力を持っている点で優れたアートたり得ていると思うのだ。

よい子の科学まん個展、あるいは何故性器にもモザイクをかけてはいけないか(その1)

東京に日帰りで行ってきた一番の理由は新宿眼科画廊で開催されているろくでなし子さんの「まんことあそぼう!よいこの科学まん個展」を見るためであった。
ろくでなし子さんはマンガ家でアーティストなのだが、自分の性器を型取りしてそれにデコレーションを施したデコまんで注目され、さらに3Dプリンターで拡大コピーしたまんボートまで作ってしまった人である。

今、多くの表現物では性器に修正をかけることが義務づけられている。
AVにはモザイクがかかり、成年コミックには黒線やホワイトの修正が施される。
これは刑法175条という法律が規定するわいせつ物頒布等の罪というものに抵触するから、ということになっている。
わいせつは「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反する」と定義されているのだが、それだと曖昧でどこからどこまでを取り締まればいいのか分からない、そこで簡易に判別するのに「性器が写っている、または描写されている」という基準がまかり通っているわけである。

ではそのことによって侵害されているのは何だろうか。
AVのモザイクは実際には性器を隠してはいない。
性器の部分だけ画素数が極端に粗くなっているだけで、形も色もある程度分かる。
昔のAVには疑似挿入というのがあったのだが、今の普通のAVではそれはありえない。
挿入されているかどうかくらいはモザイク越しでも十分判別出来るからだ。
マンガの修正に至ってはどこが隠れているのかよく分からない。
では、この程度の修正なら「表現の自由の侵害」には当たらないであろうか。

「性器を表現する自由」ということなら、大して侵害されてはいない、と言えるかもしれない。
しかし、この修正によって根本的に損なわれているものがある。
「性器を自然な身体の一部として表現する自由」である。
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