戦争という日常/日常という戦争
G会館で「アバウト・シュミット」と「戦場のピアニスト」の
2本立てを観る。
ロマン・ポランスキーの「戦場のピアニスト」はナチス占領下の
ワルシャワを生き延びたユダヤ人ピアニストの実話を映画化したもの。
ポランスキー自身が戦火のポーランドを生き延びたユダヤ人である。
映画は世界史上最大の狂気に包まれた町を生きた人々を、
丹念に、誇張を交えず、むしろ淡々と描く。
路上に子供や老人の死体が無造作に放置され、人々は面白半分に殺される、
そのような町で、人々は生きた。
彼らにとってそれが日常だった。
迫害される者にとっても、迫害する者にとっても、庇う者にとっても、
裏切る者にとっても。
映画は時代が変わっても変わらぬ日常のありようを丁寧に描くことで
想像を絶する状況を想像の圏内に引き込むことに成功している。
アレクサンダー・ペインという僕とあまり年の変わらない監督の作品
「アバウト・シュミット」では特別な状況は何もない。
定年退職を迎えた男シュミットが自分の人生に向き合う日々を描いた作品。
そのごくありふれた初老の男をあまりありふれているとはいえない役者
ジャック・ニコルソンが好演している。
ありふれた時代のありふれた男のありふれた人生は、しかし当の本人に
とっては、唯一のものである。
妻の死も娘の意に添わぬ結婚も本人にとっては人生の大問題である。
シュミットはその中で悩み、もがき、一つ山を越えたと思ったら
また次の山にぶつかる。
他のどの時代の人生に比べてもその人生が軽いものであるわけではなく、
というよりそもそも比較することができるものではない。
男は定年退職の後、テレビの広告を見てアフリカの少年のフォスター・
ペアレントになる。
その少年に自分の日常を事細かに知らせる手紙が映画の中で効果的に
使われている。
男にとってアフリカの少年の日常が想像の彼方のことであるように、
少年にとっては(実はまだ字は読めないのだけれど)、シュミットの
手紙に書かれる日常は「映画の中のことのよう」に思えるかもしれない。
2本立てを観る。
ロマン・ポランスキーの「戦場のピアニスト」はナチス占領下の
ワルシャワを生き延びたユダヤ人ピアニストの実話を映画化したもの。
ポランスキー自身が戦火のポーランドを生き延びたユダヤ人である。
映画は世界史上最大の狂気に包まれた町を生きた人々を、
丹念に、誇張を交えず、むしろ淡々と描く。
路上に子供や老人の死体が無造作に放置され、人々は面白半分に殺される、
そのような町で、人々は生きた。
彼らにとってそれが日常だった。
迫害される者にとっても、迫害する者にとっても、庇う者にとっても、
裏切る者にとっても。
映画は時代が変わっても変わらぬ日常のありようを丁寧に描くことで
想像を絶する状況を想像の圏内に引き込むことに成功している。
アレクサンダー・ペインという僕とあまり年の変わらない監督の作品
「アバウト・シュミット」では特別な状況は何もない。
定年退職を迎えた男シュミットが自分の人生に向き合う日々を描いた作品。
そのごくありふれた初老の男をあまりありふれているとはいえない役者
ジャック・ニコルソンが好演している。
ありふれた時代のありふれた男のありふれた人生は、しかし当の本人に
とっては、唯一のものである。
妻の死も娘の意に添わぬ結婚も本人にとっては人生の大問題である。
シュミットはその中で悩み、もがき、一つ山を越えたと思ったら
また次の山にぶつかる。
他のどの時代の人生に比べてもその人生が軽いものであるわけではなく、
というよりそもそも比較することができるものではない。
男は定年退職の後、テレビの広告を見てアフリカの少年のフォスター・
ペアレントになる。
その少年に自分の日常を事細かに知らせる手紙が映画の中で効果的に
使われている。
男にとってアフリカの少年の日常が想像の彼方のことであるように、
少年にとっては(実はまだ字は読めないのだけれど)、シュミットの
手紙に書かれる日常は「映画の中のことのよう」に思えるかもしれない。
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