地縁

オープンキャンパスを終えたあと、新米組長として自治会の定期総会なるものに出席したのだ。
右も左も分からない中での出席である。
どきどきである。

公民館というものにも初めて入ったのだが、思った以上にたくさんの人がいて驚いた。
自治会、思っていた以上に大きな組織である。
役職だけでも一度に覚えきれないくらいある。
年配の方が多いがちらほら若い人もいる。
といっても僕とあまり変らないくらいの年である。

平成24年度の決算に始まり、平成25年度の年間行事や予算について決められていく。
年間行事もけっこうある。
何年もここに住んでいながら、あまり知らなかった。
町内の問題についても発言があり、大変勉強になった。

実は僕が住んでいるところは、けっこう歴史のある地域なのである。
最初に引っ越してきた時に当時の自治会長からお話を伺ったのを思い出す。
今まで地縁というものをあまり意識しない生活をしてきたのだが、どうも僕も地縁の中での生活を考えるべき時が来ているのではないか。
そう思わせられた夜であった。
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展覧会三つ(その二)

そんなわけで、ちょっとフラストレーションのたまった状態で京都市美術館を出た。
スマホを見ると(僕は時計を持ち歩いていない)3時半。
京都市美術館に着いたのが2時くらいだから、二つ展覧会見て1時間半くらいしかかかっていない。
これならもう一つ見れるかな、と思って向かいの京都国立近代美術館でやっている「交差する表現 工芸/デザイン/総合芸術」という展覧会も見ることにした。
ちょっと気になってたんだけど、どうもなんの展覧会なのかよく分からなくてパスしてたのだ。

第1部と第Ⅱ部に分かれていて、第Ⅰ部は「<工芸>表現の一断面」、第Ⅱ部は「美術館と<工芸>-所蔵作品より」となっている。
第Ⅰ部では、工芸と美術の交差がテーマの展示で、例えば狩野芳崖の「悲母観音」とそれを元にした綴織作品が並べて展示されていたり、浅井忠がデザインした蒔絵の工芸品が展示されていたりする。
竹久夢二にもかなりのスペースが割かれていて、夢二のポスターや挿絵だけでなく、ポップな千代紙のデザインなんかも展示されている。
その他、前衛的な陶芸作品、創作版画なんかが展示されていて、面白く見た。
上野リチという人は初めて知ったが、壁紙のデザインなんかすごく面白い。

第Ⅱ部は近代美術館がかつてやった工芸系の展覧会の再現になっていて、陶芸、ガラス、金属、織などの所蔵品がかなりのボリュームで展示されている。
工芸系と言っても、用途の分かるタイプの作品はむしろ少なく、純粋な造形作品が多い。
日本作家だけでなく、海外の作家のものもかなりある。
ほとんど名前を知らない作家のものだけど、見応えがあった。

そんなわけでかなり満足したのだけど、京都国立近代美術館の宣伝の仕方には問題があると思う。
ポスターを見ても、どういう展覧会なのかいまいち分からないことが多いのだ。
近代美術館の展覧会には、「ゴッホ展」のように名前だけ聞けばある程度見当がつくというものが少ない。
なのにポスターがとても不親切なのだ。
よく分からないけど、時間もあるし見てみるか、と思って入ってけっこう面白かった、ということが一度ならずある。
現代アート村の人に伝わればいい、ということじゃなく、もっと一般の人に展示の内容を知ってもらう努力を近代美術館はすべきだと思う。
ちゃんと税金を国民に還元すべき、という視点は持ってもらわないと。
国立なんだからさ。

展覧会三つ(その一)

京都市美術館で開催されている「リヒテンシュタイン 華麗なる公爵家の秘宝」展と「ゴッホ展 空白のパリを追う」を見にいった。
今京都市美術館では、一階が「リヒテンシュタイン」と「ゴッホ展」、二階が創画展ともう一つやっている。
創画展はこの間見にいったので、今日は一階の二つを見にいったわけだけど、わりと小規模な展覧会なのだ。

まず「リヒテンシュタイン」展から。
オーストリアの名門貴族のコレクションからの展示。
ルーベンスの作品を中心に、絵画だけではなく、工芸品なども展示されている。
ルーベンスがやはり一番見応えがある。
「キリスト哀悼」は大作だが、キリストがいかにも死体然としていて、神の子をこういう風に描くというのは東洋人にはちょっと理解しづらいところもある。
全然神々しくないの。
もう、ほんと死体、って感じ。
エロそうなサテュロスの絵もなかなかいい。
狩りを主題にした習作2点も小品ながら迫力がある。
ヴァン・ダイクの肖像画はさすがの貫禄。
ヤン・ブリューゲル2世の「死の勝利」はペーテル・ブリューゲルの模写だが、骸骨集団が人々を虐殺しているところをこれでもかと描き込んでいて圧巻。
クリストファーノ・アッローリという画家のユディットもよかった。
あ、なんか僕が気に入った絵はだいたいちょっと不気味だったり悪趣味だったりするのが多いね。

ただ、全体に漂う貴族趣味みたいなのは、そりゃリヒテンシュタイン展なんだから仕方ないんだけど、どうも肌には合わない。
根っから庶民なんだと思う。

で、「ゴッホ展」の方がきっと肌には合うだろうと思って、そちらの会場に。
ゴッホ展は何回か行っているし、あんまり新鮮味ないかな、とも思ったんだけど、まあゴッホ嫌いではない。
ところが、今回のゴッホ展、「空白のパリを追う」ということで、なんかやたら説明に力を入れている。
絵より説明パネルの方が大きかったりする。
まるで説明の参考資料として絵が展示されているような感じ。
後半それがさらにひどくなる。
展覧会というよりほとんど研究の発表会という感じで、絵を鑑賞してほしい、という展示の仕方ではない。
僕は白けてしまって、かなり足早に過ぎてしまった。
確かにゴッホ展を今やるのならなんらかの工夫をしないと新鮮味がない、というのは分かる。
でも展覧会はあくまで作品の鑑賞が主眼だし、作品の鑑賞というのは見るものと作品が一対一で向き合うことだ。
解説も鑑賞の役には立つが、あくまで作品が主、解説が従だろう。
当たり前のことだと思うんだけど、その当たり前が忘れられている感じがして残念だった。
ゴッホが腑分けされてるの見てる感じで、作品が気の毒だった。

オズ

今年はけっこう映画館に足を運んで映画を観ている気がしたんだけど、確かに今日観た映画で19本目は4月末としてはまあまあ観た方だと思うんだけど、そのうち新作は「ホビット 思いがけない冒険」と今日観た「オズ はじまりの戦い」だけだと気がついて愕然としたり。
で、観たのが「ホビット」と「オズ」ってのもなんか微妙だよなあ。

この二本、お気づきの方もあろうが、古典ファンタジーに基づく映画であるという表面的な類似の他に、もう一つ共通点がある。
監督がB級ホラー出身だということだ。
実は「オズの魔法使い」は原作も読んでいないし、ジュリー・ガーランドの映画もたぶん子どもの頃にテレビで観ているけど、正直言ってよく覚えていない。
大友さんが描いたちょっとやばいオズはよく覚えているけど。
この映画を観にいったのは、単純に監督がサム・ライミだからだ。

サム・ライミは「死霊のはらわた」シリーズや「XYZマーダーズ」や「ダークマン」でB級魂に満ちた映画を作って僕らの世代のオタクに歓迎された監督だ。
でも「シンプル・プラン」で大人のサスペンス映画を撮って、ああ、サム・ライミはもう卒業しちゃったんだな、とセンチメンタルに思っていたら(その後数本は観ていない)、「スパイダーマン」でパワーアップしてオタク世界に戻ってきた人である。
なんか他人のような気がしない。
いや、他人ですけどね(向こうにとっては)。
CGの技術ももう行くところまで行って、正直何が出てきてもびっくりはしない。
なんでも撮れるという状況の中でファンタジーを撮る、というのはけっこう難しい問題である。
サム・ライミならどう撮るんだろう、そこに興味があった。

ここからはネタバレあり。



冒頭モノクロスタンダードで始まるのはジュリー・ガーランドの「オズの魔法使い」に対するオマージュだろう。
確か「オズの魔法使い」も冒頭モノクロでオズの国に来てからカラーに変るのだ。
このモノクロ部分がよく撮れている。
モノクロ映画のよさをよく知っている人の絵だ。
ここで冴えない魔術師オズの人間的な弱さを描く。
これが後々利いてくる。
オズの国に来てからの物語は、オズと三人の女をめぐる話になっていて、この三人の女というちょっと生臭い人間関係を持ってきたのが一つはミソ。
特にセオドラというキャラクターは物語の予定調和を乱し、観終わった後も何か小さなしこりとして残る。
ここら辺は上手いと感じた。

この映画の見所は、本当は魔法使いではないオズが最終的に技術と想像力で状況を変えていくところだ。
オズはトマス・エジソンを引き合いに出して、魔法ではなく技術で勝負することを選ぶ。
その技術が映画なのだ。
ここでたぶんサム・ライミはオズに自分を重ねている。
あるいは全ての映画産業に関わる人間とオズたちを重ねている。
映画は膨大な技術の集積の上に成り立っている。
そこに想像力を加えることで観客にありえないものを見せることが出来る。
それがまさにオズがやったことだ。

今のファンタジー映画はやろうと思えばなんでも描ける。
でもそれが生きた映画になるかどうかは、そこに作り手自身のリアリティーがあるかどうかで決まるのだと思う。
サム・ライミは自身にとって一番身近な映画の世界のリアリティーをこのファンタジー映画に持ち込んだ。
だぶんそこがこの映画の勝因だ。

追記1
同じムービックスで「死霊のはらわた」のリメイク版をやってた。
ちょっと観たかったけどね。

追記2
三人の女にサム・ライミのリアリティーが反映されてるのかどうかは知らないよ。

東映ポルノ二本立て

水曜日はB級ナイトなのである。
第4水曜はポルノ映画。

「ポルノ映画」というタームは日本ではちょっと特殊な使われ方をしている。
大手映画会社が劇場用に作ったものだけが「ポルノ映画」と呼ばれているのだ。
独立系映画会社が作っているものは「ピンク映画」と呼ばれていて、それははっきり区別されている。
大手で「ポルノ映画」を作ったのは東映と日活だ。
だから、日本映画で「ポルノ映画」と言えば、たいてい東映ポルノか日活ロマンポルノになるのである。

今日観たのは、東映の方。
一作目は1968年の石井輝男監督作品「温泉あんま芸者」。
「温泉芸者」シリーズの第1作目で、このシリーズ第4作目の「温泉みみず芸者」(1971年)というのが日本で最初に「ポルノ映画」という言葉を使った映画らしいよ。
ウィキ様によると。
この頃はまだそれまでから使われていた「ピンク映画」という名称だったよう。

石井輝男監督といえば、怪作「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」の監督で、晩年はつげ義春やつげ忠男作品を映画化した「カルト」な作家、というイメージがあるけど、下世話な娯楽作品も数多く手がけている。
「温泉あんま芸者」は、ちょっと「まんだら屋の良太」を思わせる、温泉街を舞台にしたどたばた劇。
ピンク、と言ってもだいたい上半身ヌード止まりで、主演級の女優は乳首もなかなか見せない。
温泉場での派手なキャットファイトのシーンがピンク的には一番の見所かな。
あと、野球拳のシーンは、時代だな、と感じさせる。
作りはすごくぬるいんだけど、さすがに東映作品だけあって、けっこうお金かけてる感がある。
役者も吉田輝男とか芦野雁之助とか由利徹とか金子信雄とか、芸達者で癖のある人がたくさん出ていて豪華。
女優の方では、橘ますみが可憐な主人公を演じ、三原葉子がリーダー格の芸者を貫禄たっぷりに演じている。
この頃の女優は体臭を感じさせるのがいいね。
石井監督も妙に匂いにこだわってるしね。
口臭とかおならとか。

二作目はちょっと時代が飛んで、1974年の鈴木則文監督作品「聖獣学園」。
主演は多岐川裕美。
これがスクリーンデビューである。
修道女だった母親の死に疑問を持つ魔矢(多岐川裕美)が修道院に入って…というような展開。
なんか前にも似たようなあらすじ書いた記憶が…
鈴木則文監督自身の原作による沢田竜治の劇画が元になっているらしいが、どうも劇画版は単行本化されていないみたい。残念。
多岐川裕美は演技はかなり棒読みだけど、さすがに美しい。
ヌードシーンも果敢にこなしていて、それだけでも十分観る価値がある。
まあ、いろいろ問題ある映画ではあるけどね。
修道院やキリスト教に対する悪意ある描き方も、70年代だから許されたんだろうなあ、って感じだし、長崎原爆を絡めているのに至っては、さすがに不謹慎だろう、とも思う。
70年代の物語の基盤に「権威に対する反逆」というテーマがあって、権威側(宗教であれ政治であれ警察であれ学校であれ)は徹底して悪く描かれ、それに反逆する側はみんな好意的に描かれる。
70年代的にはそれでOKだったのだ。
今観るとさすがにどうよ、って思うけどね。
その権威に対する反逆、というテーマを隠れ蓑にして、けっこう背徳的なシーンをばんばん入れていて、そっちの方がむしろやりたかったことなんじゃないか、って気はする。
映像的には見所もあり、個人劇には楽しんで観ました。
まあ、なんといっても多岐川裕美だからね。
DVD化されてくれてよかった。

グーグルカレンダー

社会人として致命的なくらい、僕はケアレスミスが多い。
人としてどうか、というくらい多い。
今日もひどいポカをやった。
あまりにひどいので、グーグルカレンダーというのに登録してみた。
というか実駒に登録してもらった。
(僕は社会人として致命的なくらいデジタルに弱い人でもあるのだ。)
予定をメールで知らせてくれたり、予定時間の前にリマインダーというのが働いたりするらしい。
これで少しはケアレスミスが減ってくれればいいのだけど、そもそもカレンダーに書き込み忘れたら意味ないわけだよな。
でも今日はちょっと懲りたので、これから真面目にカレンダー書き込みます。
反省はしてるんです。
すみません。

にっぽん昆虫記

京都みなみ会館で「日活映画100年の青春」という特集をやっている。
観たい映画が目白押しなのだが、スケジュールがなかなか合わない。
今日は、これはなんとしても、と思った今村昌平監督「にっぽん昆虫記」を観た。

1963年の映画なので、僕が生まれてすぐの映画だ。
大正から1963年まで、東北の寒村でててなし子として生まれた一人の女の半生を描いた映画。
左幸子が主人公松木とめを演じて、ベルリン国際映画祭の主演女優賞を受賞している。
映像が濃い。
全編生のエネルギーが横溢している。
人間描写の容赦なさも今の日本映画にはない密度。

この映画のタイトルの「昆虫記」は主人公たちの生き様を地を這う昆虫に例えたものだと思うけど、冒頭、その地を這う昆虫がアップで映る。
マイマイカブリのようである。
細長い頭をカタツムリの貝殻の中に突っ込んで肉を食べることからその名前がある。
マイマイカブリはオサムシ科の昆虫だ。
手塚治虫のペンネームの元になった昆虫の仲間なのである。

手塚先生は、たぶんこの映画を観ている。
冒頭、マイマイカブリが出てきたところで、手塚先生はにやっとしたと思う。
後年、手塚先生はタイトルもよく似た「人間昆虫記」という作品を発表している。
このマンガも人間を昆虫に例えており、一人の女を中心としてどろどろした人間関係を描いているところも似ている。
何より、全集版の「人間昆虫記」の表紙には複数の昆虫が描かれているのだが、その中の一匹がマイマイカブリなのである。
たぶん、これはマンガの巨匠から映画の巨匠に向けた目配せだ。
使わせてもらいましたよ、という印にマイマイカブリをさりげなく配したのだろうと思う。
そういうことを想像すると楽しい。

50年代古典B級SF二本立て

昨日はB級ナイトだったので、DVDを二本観た。
本来B級映画というのは二本立で観るのが正しい見方なのだ。
先週も二本立ての予定だったのだけど、用意していた「女体調教人アマゾネス」がうちのデッキで再生できなかった。
デッキの方もだいぶがたがきているのだけど、「女体調教人アマゾネス2」も「女体調教人ラブキャンプ」も再生できなかったところを見ると、DVDの方にもなんらか原因があるのだろう。
むしろ「女体調教人グレタ」だけ再生できたのが不思議。

で、昨日は第3水曜なので、モンスター映画二本立てだ。
B級SF映画におけるクラシック中のクラシック、「金星人地球を征服」と「暗闇の悪魔 大頭人の襲来」の二本である。
「金星人~」の方がメジャーなので、そちらを後にしようかと思ったけど、「金星人~」が1956年作品、「暗闇の悪魔」が1957年作品なので、年代順に観た。
僕はそういうところ、変に律儀なのだ。

「金星人地球を制服」はB級映画の帝王、ロジャー・コーマン監督の作品である。
そして、登場する金星人は「金星ガニ」の名前で、たぶん僕の世代のオタクなら知らないものはないくらい有名なモンスターである。
僕も容姿は昔から知っていた。
自分の作品にちょこっと登場させたことさえある。
でも観るのは初めてなのだ。

この映画、主演が「スパイ大作戦」のフェルプス君ことピーター・グレイブスと、「夕陽のガンマン」のリー・ヴァン・クリーフである。
豪華だ。
リー・ヴァン・クリーフの猛禽を思わせる容貌は博士役(どちらかというとマッドの方)を演じてもかっこいい。
そして、ロジャー・コーマン、伊達に「帝王」の名を頂戴していない。
実にきびきびとした演出で、サスペンスを盛り上げる。
しかもお金かけてない。
例えば、金星人が金星から宇宙船で脱出するシーン。
たぶん金星表面を思わせる絵(写真?)1枚とライトとカメラしか使ってない。
なのに、不思議なリアリティーがあってかっこいい。
例えば金星人がやってきて、町のエネルギーが全て失われるシーン。
ただ止まっている時計とか止まっている機械を写しているだけである。
しかし、短いショットをたたみかけるように重ねて、何か異変が起こっていることを的確に伝えている。
実に上手い。
それとこの映画、びっくりするくらい人が死ぬ。
え?まさかこのキャラクターも?と思うくらい、人が殺されるのである。
無理のあるプロット、金星ガニのむしろゆるキャラめいた造形にもかかわらず、ちゃんと一級のサスペンスに仕上げている。
さすがだ、ロジャー・コーマン。

「暗闇の悪魔 大頭人の襲来」はそれに比べるとだいぶゆるゆるな映画である。
どちらかというとコメディ色の強い作品で、サスペンスを盛り上げるシーンも戦前のユニバーサル映画を思わせる古色蒼然とした演出。
こうして比べるとロジャー・コーマンがいかに当時新しかったかよく分かる。
しかし「暗闇の悪魔」もそれなりに楽しいですよ。
空飛ぶ円盤の存在を隠す政府と軍の存在、というのもたぶん当時としては新鮮なテーマだし、50年代の若者風俗が描かれているのも、今観ると楽しい。
むしろB級の醍醐味、というのはこういう作品にある気がする。

そんなわけで50年代を満喫した一夜であった。

文学フリマ

4月14日、大阪は堺市産業振興センターで開催された「第十六回文学フリマin大阪」に参加したのだ。→http://d.hatena.ne.jp/jugoya/20130414
参加したと言っても、僕が文学に転向して文学フリマに参加したわけじゃなくて、実駒がサークル参加したのに、僕はついていったのである。
実駒は詩集を2冊、おまけ本1冊を出して、「夜間飛行惑星」というサークル名で参加した。

「第十六回文学フリマin大阪」と言っても、実は大阪で文学フリマが開催されるのは今回が初めて。
元々東京で開催されていた文学フリマという文学同人誌即売会が、諸々の事情で今回初めて大阪でも開催されたのである。
記念すべき第1回なのである。

マンガの同人誌即売会なら慣れているのだが、文学となると畑違いである。
アウェー感っていうんすか?
最初はここにいていいのか、と思ったんだけど、行ってみるととても楽しかった。
主に詩と短歌のサークルを見て回った。
詩とか短歌とかに興味はあるけど、なかなか手を出せずにいたので、今回気になった本を何冊か買った。
僕の出身大学の短歌サークルも本を出していたので、それも買ってみた。
帰りの電車で時間をかけてその本を読んで、若い人がこんなに一生懸命短歌について考えている、ということに感動した。

はっきり言って、詩や短歌は今の日本では大きなマーケットにはならないジャンルだ。
でも、詩(短歌等含め)というのは必要なものだと僕は思っている。
人間は言葉を使ってしか物を考えることが出来ない。
その言葉というものが、自明なものだ、と僕らは思いがちだ。
道具としての言葉に慣れすぎて、言葉そのものを見ることを忘れてしまう。
そういう時に、言葉そのものの持つ力や魅力や謎や矛盾に気づかせてくれるのが詩だと思う。
僕は自分が詩を書く人間ではないので、詩を書く人間には尊敬の念を抱いている。
そういう人がここにはたくさん集まっているのだなあ、と思うととてもわくわくする。

大阪での初めての文学フリマは盛況の内に幕を閉じ、実駒の本も思った以上に売れて、実駒もご満悦。
買った本はこれからゆっくり読むつもり。

新米組長

町内会の組長に任ぜられたのだ。
重責である。
僕が職務を果たさなければ、回覧板は回らないのだ。

常々僕は、人はその地域に根ざして生きるべき、と思っていた。
震災以降、さらにその思いを強くした。
したのだが、長年のマンション暮らしが祟ってか、今の住所に家を建てて引っ越した後もご近所付き合いなんてものをほとんどせずに来てしまった。
僕が属している組がどこからどこまでなのかということからして分かっていなかった。
左京区が出している「左京ボイス」という広報紙があって、それは組長が各御家庭に配ることになっている。
それで初めてどこからどこまでが自分の組か分かった次第。
もちろんほとんどの人は面識がない。
なんとも頼りない。

前組長からいただいた地図を頼りに「左京ボイス」を配って回る。
おお、この家の人は陶芸をされているのか。
ここは、猛犬注意、と書いてあるぞ、大丈夫か。
ここの家の郵便箱はどこだ?あ、ここか。

そんな感じで、けっこうエネルギーを使った。
この機会に自分の住んでいる地域について勉強させていただくつもり。
「左京ボイス」もちゃんと読もう。
プロフィール

おがわさとし

Author:おがわさとし
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