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魔女と呼ばれた少女

アップするのが遅れたけど6月28日に観た映画の続き。

夕食を食べてから観た二本目は「魔女と呼ばれた少女」。
この映画、実駒が観たいと言うので観たのだが、実は僕は全く予備知識なしに観た。
(以下ネタバレ含む。)



舞台はアフリカのどこかだ。
フランス語を使っているのでアフリカのフランス語圏のどこかなのだろう。
妊娠した少女がおなかの中の子どもに話しかけるところから話が始まる。
おなかの中の子どもに、自分の経験したことを話すのである。

ある日少女コモナの住む村が反政府軍に襲われ、コモナは自分の両親を射殺するよう強要される。
冒頭からショッキングな展開だ。
両親を射殺したコモナは他の子どもたちとともに反政府軍に連れられ兵士になる訓練を受ける。
コモナには霊が見えるようになるのだが、それを買われて、反政府軍のリーダーの「魔女」になる。
コモナの魔力を作戦に使おうというのである。
マジシャンと呼ばれるアルビノの少年がコモナと親しくなる。
マジシャンはいずれコモナも殺されると告げ、二人は逃亡をする。

その二人の逃避行と恋愛、悲劇的な結末。
部隊長の子どもを宿し、その部隊長を殺して逃走するコモナ。
過酷な現実が次々と描かれる。
にもかかわらず、この映画は希望を失わない。

帰ってパンフレットを読んで、舞台がコンゴであったことを知った。
映画に描かれるような子ども兵の悲劇は現実にあることだと解説にある。
監督はカナダ人だ。
ベトナム人の父とカナダ人の母を持つキム・グエン監督である。

この映画は、子ども兵の悲惨な現実を描きつつも、若い主人公たちの心の機微やコンゴの黒人社会の助け合いの精神なども同時に繊細に描いている。
絶望だけが支配している社会だという描き方はしていない。
厳しい現実を直視しながらも希望を失わないしなやかさがこの映画の一つの魅力だ。
もう一つの魅力は、コモナの見る亡霊たちの世界の持つ独特な幻想性である。
白塗りの亡霊たちは生きている人間と同じくらいリアルにそこに存在している。
その魔術的な世界とドキュメンタリーのようにリアルなアフリカの描写が調和していて、この映画を味わい深いものにしている。

最近新たな経済圏としてのアフリカが注目を集めていて、それはそれでいいことだと思うけど、アフリカについて僕らはもっと知った方がいい。
悲惨な部分だけをクローズアップするのでも、明るいところだけをクローズアップするのでもなく。
主演のラシェル・ムワンザはストリートで監督に見出された少女だが、この映画で、アフリカ女性として初めてになるベルリン映画祭主演女優賞を受賞した。
マジシャンを演じたセルジュ・カニンダもすごく魅力的だった。
いつかコンゴ人監督の撮った映画も観てみたい。
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恐怖と欲望

今日(6月28日)は実駒と京都みなみ会館で映画を二本観た。
たまたまだけど、二本とも戦争を舞台にした映画だ。

一本目はスタンリー・キューブリック監督の幻のデビュー作「恐怖と欲望」(1953年)。
キューブリック本人が「アマチュアの仕事」として封印してしまった作品。
(以下ネタバレを含む。)

冒頭ナレーションで、これが特定の場所の特定の戦争ではなく、ある種の普遍的な戦場だと言うことが語られる。
敵陣に飛行機が落ち、4人の兵士が見方の陣地に戻ろうとする。
その極限状態での兵士の心理が克明に描かれる作品。

捕まえた現地の女(白人)を見張っているように言われた若い兵士が、彼女に慰めを求め次第に精神を崩壊させていく下りはこの映画の一つの山場になっている。
アップを多用した映像は緊迫感に満ち、息詰まるようなリアリティーがある。
女はほとんどセリフがないのだが、強い印象を残す。
後半のクライマックスは、残された3人が敵の将軍が近くにいるのを知り、1人が囮になって敵将軍を襲撃するという場面。
実はエンドロールを見るまで気がつかなかったのだけど、倒される敵将軍と主人公は一人二役である。
単にキャストを減らすためではないだろう。
戦場においては、人は自分を殺すのだ、というアイロニーだ。

キューブリック本人が撮影をしており、個々の映像は力強い。
食事中の敵を襲うシーンの蹴散らかされた食べ物の描写など、感心した。
なんとなくヌーヴェル・ヴァーグ的な感じもしたのだが、1953年にはトリュフォーもゴダールもまだデビューしていない。
当時としては画期的な映像だったのではないか。
一方、冒頭のナレーションを含め、多用される内言などが説明過剰な感じもある。
この辺りは後のキューブリックのストイックな映画作りとは違っている。
音楽の使い方もこなれていない。
しかし、荒削りだからこそ、若き日のキューブリックの野心が感じられる作品になっている。
天国だか地獄だかにいるキューブリックは今頃身もだえしているかもしれないが。

キューブリックが大好きだったS先輩がこの作品を観られなかったのは残念だ。
S先輩の「恐怖と欲望」評、読んでみたかった。

エド・ウッド二本立て(その2)

エド・ウッド監督作品、二本目はもちろん「プラン9・フロム・アウター・スペース」である。
かの名高い「史上最低映画」である。
「2001年宇宙の旅」とこの映画を観ればSF映画の一番上と一番下は押さえたことになる。
上は押さえていたが、下がまだだった。
ここは一つ押さえておかなくては。

映画としての出来がどうこういう以前に、いろいろひどい。
WHDジャパンというところが制作して、有限会社フォワードというところが販売している500円DVDなのだけど、まず画質がひどい。
明らかに元はフィルムではない。
たぶんビデオ。
白黒なのだが、なんか変な緑っぽい色がついている。
しかもタイトルが入らない。
タイトルクレジットもエンディングクレジットもなし。
映画としての体裁すら整っていない。
この映画、向こうのテレビの深夜放送でよくかけられたそうなので、元はそのテレビ用の映像なのではないだろうか。
元のフィルムとか残っていないのだろうか。

映画としてもなかなか凄まじい。
「怪物の花嫁」なんてまだまだこの映画に比べたら立派なものだ。

エド・ウッドのこだわりのなさはここでも顕在だ。
何回か旅客機の操縦席が映るのだが、計器も窓も何にもないセットで、どう見ても操縦席に見えない。
操縦席に座っている二人も操縦しているように見えないし、後のカーテンを開けてスチュワーデスが入ってきても、その後に乗客がいると想像するのは至難の業だ。

ストーリーの破綻ぶりも見事だ。
そもそも宇宙人が地球侵略(?)のために死体を蘇らせる、というアイディアが馬鹿馬鹿しい。
蘇る死体が3体だけ、というのもしょぼい。
円盤のしょぼさはいうまでもない。
しかし昭和30年代生まれをなめてはいけない。
こんな円盤腐るほど見てきた我々だ。
それくらいでひるみはしないのだ。

蘇るのは魔女風のヴァンパイラ(という女優さん)、ベラ・ルゴシ、トー・ジョンソンの3人。
たった3人とは言え、この3人、濃い。
ヴァンパイラ、腰細っ。
ベラ・ルゴシは意味もなくドラキュラ・スタイル。
実はベラ・ルゴシはこの映画の撮影中に亡くなっていて、エド・ウッドは使えるフィルム使いまわしたり、他の役者(というか素人)に顔を隠してベラ・ルゴシのふりをさせたりしていたらしい。
トー・ジョンソンは最初威厳のある刑事役で出てきて、おおっと思ったけどすぐに死んで、ゾンビとして蘇る。
ちなみに字幕では「ゾンビ」となっているけど、実際にはゾンビという言葉は使っていない。
この3人がうろうろ歩き回るだけで、確かに絵としては見応えがある。
本当にうろうろすることしかしていないんだけど。

宇宙人側のしょぼさも筋金入りだ。
この時代のSF映画をそんなにたくさん観ているわけではないのだが、さすがに宇宙人が全くノーメークなのは珍しいんじゃないだろうか。
変な服は着ていて変な挨拶はするが、宇宙人には見えない。
セットと言えるほどのセットも出てこない。
学生映画のノリだ。
さっき「侵略」と書いたけど、本当は人類が宇宙を滅ぼすのを止めようとして来たらしい。
宇宙人の熱く長々しい演説が入るのだけど、説得力は皆無だ。
力の入れ所をここでも間違っている。

しかし、この映画に不滅の輝きを与えているのは、全てがしょぼいこの世界に、何かよく分からない鬼気迫る雰囲気が漂っていることだろう。
エド・ウッドはコメディを撮ろうとしてはいない。
「ロッキー・ホラー・ショー」みたいに、ホラー映画やSF映画に対するオマージュと言うのとも違う。
よく分からないけど、何かに憑かれたようにただならぬ決意だけで中身の全くない映画を作ってしまった。
そんな映画だ。
もっとつまらない粗大ゴミのような映画はたくさんある。
この映画が「史上最低」とまで言われるのは、この映画の一度観たら二度と忘れられないその強烈なインパクトにある。
どこがどうと言えないのだが、強いて言えば全てが間違っている。
そんな映画はそうないのである。

エド・ウッド二本立て(その1)

水曜夜はB級ナイト、と決めて、B級映画二本立てで観ることにしているわけだけど、ハリーハウゼン追悼でB級とは言いがたい作品が続いた。
ローレンス・オリヴィエまで出てきたとあっては、とてもB級の名に値しない。
ここは一つバランスをとって、Z級を観よう、と考えた。
そうやってすぐバランスとろうとする辺り、いかにも小市民の発想ですね。
いいもん小市民だから。
しかもZ級、と言っておいて誰でも知ってるエド・ウッド監督作品を出しちゃう辺り、いかにもゆるい。
いいもんゆるいオタクだから。

で、エド・ウッド監督作品二つ観た。
実はティム・バートンの「エド・ウッド」は観てるけど、エド・ウッド本人が監督した作品、初めて観る。
エド・ウッドが脚本を書いた「死霊の盆踊り」は観たけど。
あれもたいがいな映画だったな。

一本目は1955年の作品「怪物の花嫁」。
まず、嵐の夜、怪しげな洋館、稲妻とサスペンスフルな音楽で幕が上がる。
あれ?思ったよりちゃんとしてるぞ?
続く二人の男の説明的な棒読みセリフはなかなかB級ぽいけど、これくらい全然大したことない。
なんだよ、身構えて損したよ。

洋館にたどり着いた二人。
出てくるのはベラ・ルゴシだ。
あの、ベラ・ルゴシだ。
おお、感動するなあ。
入れてくれと頼む二人をにべもなく断るベラ・ルゴシのヴォーノフ博士。
そこに登場する、トー・ジョンソン演じる大男ロボ。
このロボの登場シーン、普通だったらカットを変えて強調するところだが、固定カメラ1カットで、ベラ・ルゴシと二人が言い合っているところに、画面手前から普通にがーって言いながら現れる。
なんというか、すごく無頓着。
この無頓着さがこの後もこの映画の随所随所で現れるのだ。

例えば、だいぶ後のシーンだけど、ヒロインの車が林の中で事故を起こすシーンがある。
ヒロインが車からふらふらと出てくるところがロングで撮られている。
手前の木に何か引っかかっている。
ゴムのヘビみたいだ。
この映画、白黒なのではっきりとは分からないのだが、わりと大きなゴムのヘビである。
ゴムのヘビだよなあ、と思ってみているのだが、ヒロインは気がつかない。
で、カットが変ると急に本物のヘビの映像に変る。
ああ、やっぱりヘビだったんだなあ、と思うんだけど、本物のヘビの映像は他で撮られたものらしく、ヒロインと本物のヘビが同じカットにはいることはない。
ヒロインが悲鳴を上げたところで、またカットがロングになって、ロボが現れてゴムのヘビを放り投げる。
ゴムのヘビはゴムのヘビ以外の何物にも見えない。
少しでも本物に見せようという意欲がまるで感じられない。

この映画の中では一番の見世物であるはずの大ダコに対してもエド・ウッドの演出方針は変らない。
水槽の中にいる普通のタコと作り物の大きなタコが使われるのだけど、普通のタコを大きく見せる工夫も一切されていないし、作り物のタコを本物っぽく見せる工夫も一切されていない。
最初の何回かはタコの足を糸で持ち上げるくらいの事はしているけど、ラストではベラ・ルゴシは動かない作り物のタコ相手に必死の演技をしている。
このこだわりのなさは清々しいほどだ。

ではこの映画が、全然愛のない、気の抜けた映画なのかというとそんなことはないのだ。
カメラも美術もいい仕事をしているし、脚本も部分部分を見るとそれなりに工夫されている。
むしろとても力こぶの入った作品なのだ。
なのに、そこで抜く?というところでびっくりするくらい力を抜く。
そこは抜いちゃ駄目でしょ、という場面に限って抜く。

見所はたくさんある。
なんと言ってもベラ・ルゴシが素晴らしい。
ヴォーノフ博士が催眠術を使うシーンがあるが、そこで「魔人ドラキュラ」でお馴染みの、あのなまめかしい手の動きが見られる。
年を取ってもいささかも神通力を失っていない。
エロい。

そしてトー・ジョンソンのロボ。
一目見たら忘れられないその容姿。
ボリス・カーロフ演じるフランケンシュタイン・モンスターのような哀れみも感じる。

力の入れ所をとことん間違った正統派ホラーSFである。

ホームカミングデイ

母校である京都府立鴨沂高校が校舎の全面的な建て直しをすることになった。
今日は、卒業生に来てもらう「ホームカミングデイ」ということになっていて、クラブの後輩たちと母校を訪れた。

卒業してからも何回か行ったことはあるんだけど、それにしても懐かしい、と感じないほど違和感なくその場にいた。
卒業して30年もたってるなんて嘘みたいだ。
それだけ成長してないのかね。

食堂でお昼ご飯を食べるのはほんとに生徒だったとき以来。
壁に後輩の30年以上前に描いたボードがまだ貼ってあってびっくり。
唐揚げ卵とじ丼、おいしかった。

階段が磨り減って角が丸くなっているのは僕らがいた頃からそう。
いったいどれくらいの生徒がこの階段を昇り降りしたのか。

3年のときの自分の教室に入った。
記憶より狭い。
誰が書いたのか、黒板に「ありがと鴨沂」の文字。

クラブボックスのある校舎裏が一番懐かしいエリア。
クラブボックスのある場所が記憶とちょっと違っていた。

文化祭の時に使うシンボルタワーが地下の倉庫に見当たらなかった。
僕の2年上の先輩たちが作ったもの。
最近まで使われていたはずなんだけど、捨てられちゃったのだろうか。

図書館に安孫子武丸さん、田中啓文さん、田中哲弥さん、牧野修さんら知り合いの本があっておかしかった。
学校の図書館で牧野修読んで人生を誤る高校生とかいてほしい。
僕が表紙を描いた恩田陸さんの「ロミオとロミオは永遠に」もあってちょっとうれしかった。

今年の1年生から制服が導入された。
2年生、3年生は私服。
ちょっと寂しいが、まあ卒業して30年以上になるOBが口出しすることではない。
新しい制服はなかなかかっこいい。

この見慣れた風景がなくなってしまうのは寂しいけど、それは仕方のないこと。
写真をたくさん撮った。
ありがと鴨沂。

オブリビオン(ネタバレ注意)

20日の木曜日に実駒と「オブリビオン」を観に行った。
MOVIX京都。
この映画、基本的にワンアイディアSFなんで、観てない人は読まない方がいいかも。
そんなにがっつり中身書いてませんが。
















映像が実に洗練されていて、面白かったんだけど、ネタが分かった上でもう一回見たい映画かと言われるとちと微妙。
いろいろと粗が多くて、それも気になった。

まず放射能について、日本人と感受性がずいぶん違うんだなあ、というのが第一の感想。
この設定で放射線の線量計が出てこないというのが考えられない。
何度、線量計使えよ!と思ったか知れない。
花もまず線量計ってから捨てればいいのに。
ていうか、あの花がそんなにあぶない可能性があるんなら、そもそもジャックはなぜあんな軽装なの。
帰ってくるときもノーチェックだし。

ネタの部分に関して言うと、これってセカイ系だよなあ、と思った。
主人公の日常がそのまま世界の運命につながっていて、途中のつくりは雑、というのはまさにセカイ系じゃないのか。
敵の正体が結局分からないのもセカイ系的
アメリカも今頃セカイ系かあ、というのが二つ目の感想。

あと、最後にみんな記憶取り戻して押しかけたらどうするんだろう、と心配になった。
ヴィカがたくさんいるからいいの?
でも52番目のヴィカは?

そして最後に言いたいのは、お互い孫がいてもおかしくない年なのに、トム・クルーズはいつまで爽やか青年役なの?ということだ。
誕生日ほとんどいっしょでしょ。
去年の7月で50だよね?
トム、すげえ、ってのが最後の感想。

ハリーハウゼン追悼Part4

アップするのが遅れたけど、先週の水曜の分。
しつこくハリーハウゼン追悼企画、第4弾。
いちおうこれで区切りにします。

今回観たのはハリーハウゼンのギリシャ神話もの2本。
1本目は「アルゴ探検隊の大冒険」。
1963年の古典的傑作。
登場するのは、青銅の巨人テイロス、二匹のハーピー、トリトン、ヒドラ、7人の骸骨戦士。
テイロス(タロス、の方が馴染みがあるが)のスケール感が素晴らしい。
ぎくしゃくした動きが帰ってリアル。
トリトンをダイナメーションではなく、人間が演じているのは、昔観たときはしょぼい気がしたが、今観ると悪くない。
周りの岩が崩れていくところが上手く撮られていて、なかなか迫力のあるシーンになっている。
しかしなんと言っても圧巻は7つ頭のヒドラとその歯から生まれた7人の骸骨戦士。
7人の骸骨戦士と3人の人間が戦うシーンは、気の遠くなるような複雑な合成をしている。
素晴らしい。

もう1本は1981年の「タイタンの戦い」。
この映画が2010年にリメイクされた時は意外な気がした。
当時劇場で観て、今いち、という印象だったし、メディアでの評価もそれほど高くなかったように記憶していたからだ。
今回久しぶりに観て、この映画が1981年当時古く見えたわけもなんとなく分かったし、それが21世紀になって改めて評価されるのも分かる気がした。
1981年と言えば「スターウォーズ」に始まるSFX映画の全盛期である。
1977年「スターウォーズ」、1978年「未知との遭遇」「スーパーマン」、1979年「エイリアン」「スタートレック」、1980年「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」、そして同じ1981年には「スーパーマンⅡ冒険編」「ハウリング」「狼男アメリガン」が公開されている。
この時期のSFXは大きく分けて2つの方向性があったと思う。
一つはスター・ウォーズに代表されるスピード感とスケール感のある宇宙表現。
もう一つは「ハウリング」「狼男アメリカン」に始まり、「遊星からの物体X」(1982年)で頂点を極める特殊メイクによる過剰な肉体表現。
「タイタンの戦い」でハリーハウゼンはペガサスを実に優雅に天駆けさせるが、これはこの時代のスピード感から言えばゆっくりすぎた。
画面手前から画面奥で点になるまで1秒、くらいの勢いでもおかしくなかったのだ。
また、メドゥーサの表現もこの時代の特殊メイクの生々しさに比べればクラシックに見えたろう。

しかし、今観ると、ハリーハウゼンのこの映画での仕事は立派なものだと思う。
ペガサスの美しさやメドゥーサの禍々しさはハリーハウゼンならではの素晴らしさ。
また、この映画でハリーハウゼンはいくつも新たな試みをしている。
クラーケンは「アルゴ探検隊」で見送った、「海の巨大生物」のリベンジであろう。
ダイナメーションで水を使う難しさに挑戦しているのだ。
またヒドラ以上に複雑なメドゥーサの動き。
沼地でのペルセウスとカリボスの戦いも、生身の人間とダイナメーションの取っ組み合い、という難度の高いもの。

ハリーハウゼンの特撮の特質を一言でいうならば「ピクチャレスク」と言うことではないかと思う。
その絵としての美しさを優先した画面作りが当時は古く見え、今は改めて評価されているのだと思う。
カリボスの沼地や盲の老婆たちの住処のクラシックホラーを思わせる絵作りも忘れがたい。
そして、ローレンス・オリヴィエ、マギー・スミスら、重厚なキャスティングも見応え十分。
ハリーハウゼン最後の仕事として、決して恥ずかしい映画ではない。
リメイク版も観たくなった。

ハリーハウゼンのDVD、まだまだあるんだけど、またそのうちバラで観ると思う。
とりあえずレイ・ハリーハウゼンのご冥福を改めて祈り、その素晴らしい業績を改めて称えたい。

町別対抗バレーボール大会(その2)

そして6月16日日曜日、町別対抗バレーボール大会当日が訪れたのである。
お弁当は、たぶんなんかいるんだと思うけど、朝適当にコンビニで買うからいいよ、と実駒に言ったのだが、哀れんでくれて即席でお弁当を作ってくれた。

僕らのK町男子チームはメンバーが七人。
一人余る計算なので、上手くいけば試合から外れられるのではないか、という淡い期待もつかの間。
いきなりメンバーになって、ろくに練習もしないまま本番という大ピンチ。
実際に始まってみると手よりもむしろ足が動かない。
よたよたと足がもつれる。
なんとか来たボールに腕を当てるくらいは出来るけど、ボールの向かう先まで気を使う余裕はない。
周りのサポートに助けられて、必死にボールを追う。
サーブがいちおう全部入ったのだけが救い。
そうこうするうちに第1セットが終わる。
我がチームが第1セット取られたのだが、何点差だったのかも覚えていない。
ひー、もうよれよれですよ。
汗だくですよ。
まだ第2セットあるの?
もうだいぶ息上がってるんですけど。
そして第2セット中盤でよろよろボールを追っていたら左足をぐねってしまってあえなくリタイア。

結局第2セットも取られて第1回戦は敗退。
第2回戦は応援に回ったけど、こちらもストレート負けだった。
でも僕は実はだんだんバレーボール大会を楽しむ心境になってきたのだ。
あまり知らなかった地域の人とも少し仲よくなれたし、負けはしたものの、第1回戦が終わった後に飲んだアクエリアスは極上の味だった。
他チームの点数まくりの仕事もした。
僕はこういう単純だけど正確さが要求される仕事が苦手だ。
間違って2枚めくってしまったらどうしよう、とか考えてけっこう緊張した。
緊張していたせいか、飛んできたボールを顔面で受けて眼鏡飛ばす、というお約束ギャグもばっちりだ。

K町女子チームは不甲斐ない男子チームよりずっと健闘していて、そちらの応援にも行った。
女子チームはなんかちゃんとバレーボールの体をなしている。
ちゃんとレシーブ、トス、アタックという流れになっていて、おお、と思った。
男子チームは向こうに返すので精一杯だったからね。
いや、僕だけではなく。

なんだかんだで僕は町別対抗バレーボール大会というイベントをかなり楽しんだ。
あと、やっぱり少しは運動しないと駄目だな、と改めて思った。
なかなか充実した一日ではあった。

あ、お弁当は町内会で出してくれた。
先に言ってくれよ。
僕はもちろん愛妻弁当の方を食べましたよ。
もらったお弁当は晩ご飯になりましたとさ。

町別対抗バレーボール大会(その1)

町内の組長を引き受けたとき、僕はもう一つ役職を引き受けている。
「体振」という役職である。
たぶん、体育振興なんとか、なのだと思うが、未だに正式名称を知らない。
実は最初は「○○さんに体振引き受けてもらえないか聞いてもらえへんか?」と頼まれたのだ。
○○さんは同じ組の人だが、その時は面識がなかった。
「引き受けてもらえそうな人なんですが?」と聞くと、「いやあ、無理やと思うけどなあ。」という返事だった。
面識のない人に頭を下げて無理なお願い事をして断られた挙句自分が引き受けることになる、という未来がた易く想像できた。
それくらいなら、最初から引き受けた方がストレスが少ないだろうと思って引き受けたのだ。
体振は、選手ではなく、審判とか裏方の方がメインだと聞いていたし。

で、今日が初仕事のバレーボール大会だったのだ。

昨日まで一週間練習の期間があったのだけど、忙しかったこともあり参加していなかった。
でも、人数ぎりぎりなので体振も参加しなくてはならないらしいことはうすうす感じていた。
昨日の最終練習日には顔合わせも兼ねて、会場であるM小学校の体育館にやっと出かけた。
実は昨日になって、体育館でやるんだったらなんか上履き的なものがいるんだよなあ、と思って、昨日用事があって行っていた実家の近くの、作業着とか作業靴を売っているお店で安い靴を買った。
それほどのやる気のなさだったのだ。
で、M小学校の体育館の近くまで来て、これはまずい、と思った。
中に入るまでもなく、なんか熱気のようなものが漂ってくるのである。
正直地域のバレーボール大会なんて、もっとゆるゆるなものを想像していたわけですよ。
なんか、もう練習中にビール飲んでるくらいの勢いの。
全然違う。
これはまじだ。
アウェー感ハンパない。
簡単な打ち合わせをしたら、練習に参加することもなく、逃げるように熱血ムードの体育館を離れた。
昼ご飯がどうなっているのか、と言うのも聞くの忘れた。
あ、この時、組長は任期1年だけど、体振は2年というのも初めて知った。
えー、まじかよ。

ハリーハウゼン追悼Part3

今日はいろいろあったけど、とりあえず水曜の夜はB級ナイトだ。
ハリーハウゼン追悼の第3弾でDVD2本観た。

1本目は「恐竜100万年」。
言わずと知れた恐竜映画の古典だ。
制作はハマー・プロですよ。
ハマー、実はホラー以外にも色々作ってるのだ。
オリジナルタイトルは「ONE MILLION YEARS B.C.」だから、この「100万年」というのは日本で勝手につけたタイトルではない。
100万年前なら恐竜はとっくの昔に滅びてるし、人類の祖先はラクウェル・ウェルチまで進化してないよ!とか言ってはいけない。
この映画には全身に毛の生えた原始人類も出ていて、まあこれはそこそこ妥当なライン。
そこに、まだ知られていない現生人類に近い突然変異種の部族がいて、さらにその場所がたまたまコナン・ドイルの「失われた世界」みたいに恐竜の生き残っている世界だったのである。
そう考えればおかしくない。
うん、おかしくないおかしくない。

この映画の素晴らしいところは、冒頭のドキュメンタリー風のナレーション以外、一切英語が使われていないことだ。
原始人類はなんか原始人類語をしゃべっている。
もちろん字幕などない。
それでも、だいたいストーリーは分かる。
今回改めて観ると、けっこう込み入ったストーリーなんだよね。
荒地に住む比較的文化レベルが低い(でも紀元前100万年ならかなりハイレベル)な黒髪の部族と海辺に住む比較的文化レベルが高い金髪の部族があって、主人公のトゥマクは黒髪一族、ヒロインのロアナは金髪部族。
黒髪部族の中の父子、兄弟間の権力闘争や部族間の文化伝達などを織り込みつつ、なかなかにリアルで重厚なドラマが展開する。
それが全部原始人類語。
ほとんど一語文。

最初に登場するのはダイナメーションの恐竜ではなく、なぜか実物のイグアナを合成で巨大に見せたモンスターで、このチープさがなかなかたまらない。
あと出てくるのは、ブロントザウルス(アパトサウルスではない。断じてアパトサウルスではない。大事なことなので二度言いました。)、アーケロン(なぜかこれだけ「アーケロン」と呼ばれている。紀元前100万年からアーケロンはアーケロンだったらしい。)、アロサウルス(もちろん尻尾を引きずっている)、プテラノドン風の翼竜、それとは違う種類の翼竜(普通翼竜の羽は小指が伸びてその小指と前肢、脇腹の間に皮膜があるのだけど、この2種類の翼竜は3本の指が長く伸びていて、一見蝙蝠の羽に近い形。)トリケラトプス、ケラトサウルス(もちろんこの2頭が闘うのだ。)。
どれも素晴らしい。
そしてクライマックスの天変地異は、今も変らぬ人類の自然に対する無力とそれにもかかわらず生きていく人類のたくましさを描いて感動的。
今も色褪せぬ名作である。

2本目は「シンドバッド虎の目大冒険」。
シンドバッドシリーズ3本目。
お金はそこそこかかっているはずなのだが、ご都合主義の脚本と緊迫感のない演出で、ぐだぐだ感は否めない。
ダイナメーションもなんというか、地味。
最初の地獄から来た何かも、場末のエーリアンみたいなしょぼさだし、あと出てくるのは、青銅のミノタウロス、ヒヒ、巨大化した(30センチくらい)蜂、巨大セイウチ、一本角の原始人(?)、最後にサーベルタイガー。
ミノタウロスと原始人は特殊メイクで十分じゃん、っていう造形だし、ヒヒ、蜂、セイウチは実在する動物なんで、なんでこれをわざわざダイナメーションで?というセレクト。
サーベルタイガーと一本角の原始人の対決がいちおう一番の見せ場だけど、新味はない。
シンドバッドを演じたパトリック・ウェインはジョン・ウェインの息子、二人いるヒロインの一人を演じたタリン・パワーはタイロン・パワーの娘だそうだが、親が見たら泣きそうだ。
いや、責任は脚本家と監督にあるんだけどね。
ハリーハウゼン本人がプロデュースに加わってなんでこうなっちゃたんだろう、という駄目なファンタジー映画の見本みたいな映画。
だがしかし、このいかにもシリーズ末期のぐだぐだ感を楽しんでこそのB級道である。
少なくとも「そこそこよく出来たヒューマンドラマ」なんかより絶対こっちの方が面白い。

青銅のミノタウロスはロングでは実際人が着ぐるみで演じているのだが、演じているのはピーター・メイヒュー、後のチューバッカである。
これがデビュー作。
はい、一つ勉強になりましたね。
プロフィール

おがわさとし

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