MAYA MAXX展

あまり体調がよくないのだけど、町に出るついでもあることだし、こういうときこそアートだ、と思って28日までの何必館・京都現代美術館の「絵を刻む MAYA MAXX展」を見にいく。
何必館はすごく好きな美術館。
以前にもここでMAYA MAXXさんの展覧会を見ている。
MAYA MAXXさんは1961年生まれというから、ほとんど同世代なんだな。

一階には生命力にあふれた色彩豊かな作品が並ぶ。
画面からエネルギーがあふれている。
シンプルで力強い。
抽象もあるし、動物や人物が描かれているものもある。

ここから二階にはエレベーターで上がる。
二階の5連の作品は白と黒、それに赤か青、というシンプルで強い色彩に、緊張感のある形態。
厳しい表情のある作品が並ぶ。
MAYA MAXXさんの絵には文字が描かれていることが多い。
英語だが、読みながら見るとまた考えさせられる。

三階は二階と雰囲気がだいぶ違う。
ギルガメッシュ神話や聖書、ギリシア神話に材を取った、色彩豊かな明るい印象の絵が多い。
黒い背景にパステルカラーの象が描かれた絵がある。
足元に水溜りのようなものが描かれている。
タイトルは「私は他の人より優れていなくてもいいのだとわかった」。
画面にも英語で「I understand that it is not necessary to excel others.」と書かれている。
とても印象に残った。

四階がなくて、五階は小さな庭になっている。
ここも何必館という美術館の面白いところ。
印象的な小品がいくつか展示されている。

何必館は館長の梶川芳友さんの個性が反映された美術館なのだと思う。
美術館そのものも展示も梶川さんの美意識が反映されている。
こういう美術館が京都の真ん中にあるのはとてもいいことだ。
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B級ナイト、ちょっとエロめ

水曜日はB級ナイト。
第3水曜はポルノ、というかエロ系。

最近、希志あいのさん主演の「けっこう仮面 新生(リボーン)」というのが作られたと聞いて、それは観なくては!と思ったのだ。
で、すぐにそれを観ればいいようなものだが、この機会に今までに実写化された「けっこう仮面」を全部観る、という無謀な行を思いついた。
無謀かつ無意味である。
たぶん、僕は実写化された「けっこう仮面」を一通り観ている。
決して二度観たいと思うようなものではない。
それでも一度そうと決めたら観ないわけにはいかないのだ。
何のために!?
いや、理由などない!!

そんなわけで一本目は1991年の「けっこう仮面」。
うん、観てる、その頃に。
ビデオで。

高橋真弓役を後藤宙美という人がやっている。
ワンレンで化粧が濃くて、いかにもバブル崩壊間もない頃の作品。
全然高橋真弓には見えない。
けっこう仮面のキャストが「?」なのはその後も踏襲されている。
もちろん「月光仮面」の配役で、月光仮面役が「?」になっているのを踏まえているのだ。
でも青木クリスという人が夏綿先生をやっているから、たぶんこの人がけっこう仮面なのかな?

この作品、男優陣が豪華だ。
サタンの足の爪はポール牧。
ヒース・クリフのジョーカーばりのメイクで熱演している。
あ、ごめん、誉めすぎた。
無情ノ介役の山本昌平が無駄にかっこいい。
モロ師岡、プリティ長嶋も怪演。
プリティ長嶋をウィキで見て、政治家やってた人だと知り驚愕。
関根勤も友情出演。
女優陣はだいたい棒読みが基本。

猫の代わりに高橋真弓が解剖されかかるのは原作の「悪夢の生体解剖」、エロ柔道教師が出てくるのは「下半身暴走教師」、答案用紙を盗んだことにされて公開おしおきを受けるのは「蒼い果実の毒」と「危険な罠!公開おしおき」、お、けっこう原作に忠実じゃん。
しかし、エロ、アクション、ギャグのいずれもが中途半端。
この中途半端さが今までの「けっこう仮面」実写化作品全てに共通なのだ。

この作品のけっこう仮面はマントをつけている。
アクションはそれなりにがんばっているけど、前張りがときどき映るのはいかがなものか。
メイキングを見るとこの程度のアクションでもスタントさんはそれなりに大変なんだな、と思う。
でも「けっこう仮面」の実写化は個人的にはアクション映画であってほしい、と思っているのでこの程度では全然不完全燃焼。
まだあと9本もあるのか~。

二本目は、あまちゃんブームにあやかって、日活ロマンポルノの海女もの第1弾「マル秘海女レポート 淫絶」。
マル秘は「秘」に○。
1975年、近藤幸彦監督作品。
「けっこう仮面」の後に観ると、ああ、ちゃんと映画だなあ!と感動する。
日活ロマンポルノはB級というにはやや高級感。
話はいたって他愛もなくて、巡業ストリップの付き人をやっているタダシが置いてきぼりをくらって、海女たちの家に居候する、という話。
タダシ役の石津康彦の、貧相でそのくせ野心はある感じが時代を感じさせていい。
地元のマリンパークが海女を使った水中ストリップをしようとしてタダシもそれに関わっていく。
このマリンパークの人事課長だけがなぜか関西弁。
水中ストリップのシーンはストリップよりも、それを食い入るように見ている男たちの熱演ぶりに感心する。
そういうところで手を抜いてない。
いや、暑苦しいだけですが。
ハッテン家のナツミを樋口マキ、純真なヒロコを立花りえ。
ちゃんとみんな演技しています。
脚本は桂千穂、撮影は森勝。
タイトルはアレですが、青春グラフィティーとして十分楽しめる出来。
早朝の海から全裸のヒロコと幼馴染のタミオ(フンドシ一丁)が上がってきて、浜に二人座るなり、タミオが白いギター爪弾きながら歌を歌いだすシーンはこの映画のハイライト。
このタミオがなかなかいい味ですよ。
どうすりゃいいんだ、が口癖。
朴訥で不器用な感じがなんとも。
海女のおばちゃんたちもなかなかいいしね。
じぇじぇじぇとは言わないけど。

「進撃の巨人」と「b」(その3)

これだけ類似点があると、諫山創さんが「b」を読んでいて、なおかつそれを意識しなかった、という可能性は低いと思われる。
作者というのは先行作品に対して敏感になるものだし、読んでいれば意識せざるを得ない。
意識の方向性に二つある。
先行作品との設定の重複をなるべく避ける方向と、むしろ先行作品の設定を積極的に取り入れる方向である。
これは先行作品に対する作者の評価とも関係がある。
仮に諫山さんが「b」を読んでいたとすれば、前者のケースは考えにくい。
だとすると、「b」は「進撃の巨人」のルーツの一つだった可能性が高い。
あるいは、想像をたくましくすれば、「進撃の巨人」が「b」の遠い未来における続編であったとしても、10巻までを読んだ範囲では大きく矛盾しない。
もちろん「b」と「進撃の巨人」の設定には大きな違いもあるのだが(例えば「b」ではうなじに特別な意味はない)、巨匠の他の作品のリメイクや映画化でもそれくらいの設定の変更は行われているのである。(巨匠の「a」のベテラン作家によるリメイクや「d」の映画化などを考えればそれは分かるだろう。)

こう言ったからといって、諫山さんのオリジナリティーを貶めることには決してならないだろう。
「b」の設定の持つポテンシャルを最大限に引き出して、全く違う世界を作り出していると言えるからだ。
最初に書いたように、無から生まれる作品はないのである。

では、諫山さんが「b」を読んでいない可能性はあるだろうか。
それはあるだろうと思う。
巨匠が亡くなった年に諫山さんはまだ2歳である。
「b」は僕の世代なら誰でも知っている作品だが、諫山さんの世代であればマンガ家だからといって必ず読んでいるはず、とまでは言えない作品だ。
読んでいないのに、設定が似通うというのはありえない話ではない。
巨匠自身がアイディアがかぶった経験について苦々しく語っている文章がある。
そしてメインのアイディアが似るときには不思議とサブのアイディアも似るものなのである。
僕自身の少ない経験でもそういうことはある。
しかし、だとすればそれはそれで、ほぼ半世紀を経たマンガのDNAの隔世遺伝は十分興味深いものではないだろうか。

「進撃の巨人」と「b」(その2)

「進撃の巨人」の巨人と「b」の巨人には、人間が巨人化する、というアイディアに加え、少なくとも二つ大きな共通点がある。

一つは巨人化のサイズに何段階かあるということだ。
「b」では巨人化薬の量によって、等身大から50倍(およそ100メートル)まで5段階の大きさをとることが出来るという設定になっている。
実際、巨人化した主人公は様々な大きさで描かれている。
これは「進撃の巨人」の3メートル級とか14メートル級とか超大型巨人(60メートルくらい)とかいう区分に近い。

もう一つは、「b」の、巨人化と同時に身体が鋼鉄のように硬くなる、という設定である。
巨人化薬を少量注射すると身体の大きさは変らず、硬化だけが起こる。
巨人化よりも硬化は本質的な特徴なのである。
一方、「進撃の巨人」では7巻以降に巨人の硬化ということがクローズアップされ、それがさらに世界の大きな謎と関わってくる。
硬化しても目だけは弱いらしく、「進撃の巨人」7巻では硬化能力を持つ女型の巨人の目を狙う戦術が取られるが、同じ戦術が全集版「b」2巻41ページで主人公に対して取られている。

他にも「b」と「進撃の巨人」にはいくつかの興味深い共通点がある。
「b」は、まずナチス政権下のドイツから話が始まり、そのためドイツ人が何人も出てくる。
「進撃の巨人」もエレン・イェーガーを始めキャラクターの多くはドイツ系の名前を持っている。

「b」の主人公の母親は中国人とドイツ人の混血だが、これは「進撃の巨人」のミカサ・アッカーマンの設定と類似している。

また「進撃の巨人」のアクションの要になっている「立体機動」だが、これも「b」に同様のアクションが出てくる。
全集版2巻第10章には人工のくもの糸を使って空中を自在に移動するくも人間が登場する。
「b」の連載が始まったのは1965年で、その3年前の1962年にはマーヴェル社でスパイダーマンがデビューしている。
アメリカでのスパイダーマン人気を知った巨匠がいち早くその設定を自作に取り入れた、というのはありそうなことである。
一方「進撃の巨人」の立体機動にサム・ライミの「スパイダーマン」3部作や新しい「アメージング・スパイダーマン」のアクションが影響していないというのは考えにくい。
「b」と「進撃の巨人」に直接の関係がないとしても、両者の「立体機動」のルーツは同じである可能性があるのである。

最後にテーマに関してだが、「進撃の巨人」では「外の世界を探検する」ということに大きな意味が与えられている。
「b」での巨人は元々は軍事目的だったのだが、主人公はそれを宇宙開発に役立てようと考えているのである。
テーマにおいても一定の類似が見られると言っていい。

「進撃の巨人」と「b」(その1)

どんな作品も無からは生まれない。
先行する作品や実在の事件などの影響を受けて作品というのは作られるものである。
「進撃の巨人」については、最初に読んだ時からジョージ・A・ロメロの影響は感じた。
知性もなくたたひたすら人間を捕食する巨人のイメージはロメロのゾンビ映画からインスピレーションを受けているだろう。
ロメロのゾンビ映画第2作である「ゾンビ」は、ショッピングモールを舞台に、内側を人間の世界、外をゾンビの世界に分け、間に「壁」を作ろうとする物語である。
それを拡大すれば「進撃の巨人」の世界観になる。

それとは別に、「進撃の巨人」3巻を読んだ時、エレンの父グリシャが、エレンに地下室の謎を託すシーンに僕は強い既視感を感じた。
その時はそれが何によるものか分からなかった。
3巻を読んだあと、しばらく続きを読んでいなかった。(僕は新刊が出るたびに買って1巻ずつ読むという読み方が出来ない。)
最近10巻までを通して読んで、その既視感の元が何なのか気がついた。
巨人をテーマにした某巨匠の有名な作品である。
仮に「b」とする。

僕は雑誌の方を読んでいないし、作者のブログ等にも目を通していない。
従って、以下の考察は単行本化された「進撃の巨人」10巻までと「b」全集版全4巻のみのよるものである。
またネタバレを含むので、「進撃の巨人」10巻までを読んでいない方はご注意を。

「b」ではナチス政権下のドイツで巨人化薬が作られる。
開発者の一人が主人公の祖父で、その秘密は祖父から父へ、父から主人公へと引き継がれる。
つまり父から息子への秘密の継承が二度行われるのである。
全集版1巻24ページから26ページが祖父から父へ秘密が受け継がれるシーンである。
麻酔注射をした後、祖父がまだ少年である父に秘密を託すことをつげ、巨人化薬の秘密が書かれた金属板を身体の中に埋め込む。
セリフの雰囲気はこちらが「進撃の巨人」に近い。

父から主人公への秘密の継承は76ページから100ページまでの1エピソードである。
実は僕が感じた既視感はむしろこのエピソードから来ている。
場所は針葉樹の森に囲まれた研究所である。
針葉樹の森は「進撃の巨人」でグリシャがエレンに語りかけるシーンでも背景に描かれている。
また祖父から引き継いだ巨人化薬の秘密を父は研究するのだが、その場所が「地下の実験室」なのである。
「b」の3巻17ページで死んだ父に替わり主人公が巨人化薬の研究を引き継ぐシーンがあるが、そこでも主人公は階段を降りて研究室に向かっている。
巨人の秘密が隠された研究室は地下にあるのである。

ロジャー・コーマン二本立て

7月17日は51歳の誕生日だったんだけど、B級ナイトは通常運転。
帝王ロジャー・コーマンのSF映画二本立て。
「恐怖の獣人」と「原子怪獣と裸女」。
B級界では有名なAIP作品。
以下ネタバレご免。

一本目は「恐怖の獣人」(1958年)。
原題は「TEENAGE CAVE MAN」。
ロジャー・コーマン自身は「PREHISTORIC WORLD」というタイトルにしたかったらしいが、プロデューサーのサミュエル・アーコフに勝手にタイトルを変えられて、コーマンはご不満だったらしい。
まあ、よくある話だ。
原始時代を舞台にした作品で、確かにみんな原始人風の服を着ているが、よく見るとけっこう小ぎれい。
髪もきちんとセットしてるし、ひげはきれいに剃ってあるか、延ばしていてもきれいに刈り込んである。
ぜんぜん原始人に見えない。
こういうのを見ると「恐竜100万年」はよく出来ていたんだなと実感する。
掟に縛られた一族と、その掟に疑問を抱く若者、というのもよくある図式で、あまりぱっとしない。
川向こうの禁断の土地には例によって恐竜がいるのだが、ストップモーション・アニメーションではない。
ブロントサウルスらしきものはたぶん模型、ティラノサウルス風のは着ぐるみだろうか?
いずれにしても、チラッと出てくるだけ。
背中に作り物の背びれをつけたワニとオオトカゲの対決シーンは一番の見せ場。
ワニが本気出している。
ワニは獲物を食いちぎる時に身体をスクリューのように回すのだが、それをオオトカゲ相手にやっている。
たぶん今やったら動物保護団体からクレームが出るレベル。

クライマックスまではなんか物足りんなあ、と思っていたのだが、ラストにどんでん返しがある。
SFだったのかー、とそこで分かる。
いろいろもやもやした感じだったものが一気にすっとする。
さすがにコーマン、手を抜いても最低限のサービスはしてくれます。

さて二本目は「原子怪獣と裸女」(1956年)。
まず邦題が素晴らしい。
B級ナイトは第1、第3火曜をモンスター映画、第2、第4水曜をポルノ映画、ということにしているのだけど、個人的にB級といえば怪獣か裸が出てくるべきだと思っているのだ。
この邦題は短い中に僕がB級映画に求めるものが凝縮して入っている。
ちなみに原題は「DAY THE WORLD ENDED」。

実は内容は原題の方がよく表している。
水爆戦により世界が滅びた後の物語。
裸は出てきません。
水着か下着のようなものを着て水浴するシーンは出てくるけどね。
まあ、予想の範囲。

水爆戦のあと、それを予想し、準備をしていた男の家に生き残りが集まってくる。
周りが放射能に汚染された世界で、地形的に放射能を免れたその家とその周辺を舞台に、7人の男女が織り成す濃密なドラマがこの映画の主軸。
地球滅亡後という大状況を扱っていながら、最初に水爆の記録映像が使われている以外、ほとんどセットにお金かけてない。
普通のホームドラマ撮るくらいのセットでこんなスケールの大きいSF映画を作ってしまうのはさすが。
はったりのかまし方が素晴らしい。
そしてこの7人がそれぞれに個性があり、極限的な状況であることもあって、ドラマとしても見応えがある。
7人のうち1人は放射能の影響で生肉だけを食べるようになる。
それが伏線になって、外の世界にいる放射能による突然変異で生まれた怪物の話へと持っていく辺りも手馴れたもの。
7人が1人ずつ減っていくサスペンスもいい感じで、B級ながら緊張感のある映画になっている。

怪物が汚染されていない雨によって倒されるラストに関してはいろんな意見があるだろう。
放射能を甘く見ている楽観的なラストと見ろことも出来る。
でも僕は、科学の罪が科学によっては贖えず、自然の力によって浄化される、というところを評価したい。
ゴジラがオキシジェン・デストロイヤーという科学の力によって倒されるのと好対照だ。

あと、最後に「THE END」ではなくて「THE BEGINNING」で終わる映画、ずっと昔テレビで見た記憶があるのだが、これが元だったのだろうか。
テレビで観た方の映画はたぶんカラーだったと思うんだけどな。
設定はけっこう似ていたような気がするんだけど。
あれ、なんだったのかなあ。

愛と死をみつめて

先週はすることがあって、観る予定だった「昭和の爆笑喜劇王」を観ることが出来なかった。
そんなわけで、先々週に引き続き、「吉永小百合私のベスト20」を観る。

今日観たのは「愛と死をみつめて」。
昭和39年(1964年)の斉藤武市監督作品。
以下ネタバレご免。

DVDマガジンには「難病に冒されたミコ(これが吉永小百合)と、文通相手マコ(浜田光夫)の純愛物語」とある。(カッコ内は筆者)
なんだ、難病ものか、と思った人もいるであろう。
正直僕も、難病ものかあ、と思った。
しかし、この映画、そんな分類に簡単に収まるような映画ではなかった。

まず、難病が、顔面の軟骨肉腫である。
最初、眼帯をしていたヒロインは、手術で顔の左半分を失い、その後はずっと顔の左側に大きなガーゼを貼っている。
手術についても「顔がつぶれる」というような直接的な言葉が使われている。
そしてそのあと、顔も右半分にも転移し、その手術は不成功に終わる。
この手術の直後の吉永小百合は右目と口の右半分以外包帯に覆われている。
今人気女優を主人公にして難病ものを撮るのに、こんな設定はありえない。
放射線治療で髪が抜ける、といったところまではさすがに再現していないが、基本的なところでこの映画は逃げていない。

この映画は実話を元にしている。
前年に亡くなった大島みち子さん(映画では小島道子)と川野実さんの往復書簡がベストセラーになり、それを吉永小百合さん本人が、どうしてもやりたいと日活にお願いして作った映画、だという。
吉永小百合さんも作り手も相当覚悟を決めて作った映画なのだろう。
本気度が違う。

病院での闘病も具体的でリアルだ。
同室の患者(ミヤコ蝶々)が創価学会(名前がそのまま出る)だったりするのも当時の世相を反映しているのだろう。
父親が中小企業勤めで、入院費も馬鹿にならない、といった話も出る。
当時の医療や保険制度についても触れられていて、社会派的な側面もある。
担当医が病室に来ていきなり煙草を吸いだしたのには驚いたが、当時はそういうものだったのだろう。
この頃は女性入院患者が男性入院患者の洗濯を引き受けるという習慣があったらしく、これも今見るとずいぶん奇異に感じる。
ミコが担当する入院患者を演じたのは宇野重吉で、さすがの貫禄だ。
ミコを妬んで、詰め寄る女のシーンはこの映画の中でも強烈な印象を残す。

出番は多くはないが、娘に先立たれる父を笠智衆が演じている。
表情が豊とは言えない笠の静かな演技が昭和の父親像を見事に捕らえている。

基本的にリアリズムに裏付けられながら、懸命に生きるミコと、ミコに寄り添い、時に衝突するマコの姿を、映画はセンチメンタルに流されることなく、文字通り「みつめて」いる。
そこが凡百の「難病もの」と根本的に違うところだ。
若い人が死ぬ、という、辛いけれども現実にある出来事をこの映画は臆することなく描く。
ラストも美談にしてしまわない。
しかしそこにはどこか宗教画のような感動がある。
難病ものか、と思った人にこそ観てほしい映画。

しかしこういう映画を観ると、いかに今の僕らがオブラートにつつんだ物言いに慣らされているかが分かる。
それにはそれの利点もあるが、そこで失われているものも確実にあるのだ。

友松直之監督二本立て

水曜夜はB級ナイトと称して一人黙々とB級映画DVD二本立てを観ているわけだが、基本観ているのがかなり昔の映画である。
たまには新しめの映画を観ようと思って、今回は友松直之監督の映画のDVDを二本観た。
友松監督の作品は「吸血少女対少女フランケン」を劇場で観ている。
なかなか楽しい映画だった。
ちなみに斉藤工という俳優さんはこの映画で初めて見た。
その後見たのが三池崇史監督の「愛と誠」の岩清水君役だったので、僕の中では斉藤工さんはキワモノ役者である。
この後どんな映画に出てもたぶんそのイメージは変らない。

今日観たのは「メイドロイド」と「レイプゾンビ」。
以下ネタバレごめん。

「メイドロイド」は正確には「AアイI高感度センサー搭載メイドロイド」で、「アイ」はちっちゃい文字。
AIを「アイ」と読ませているのである。
主演は吉沢明歩さん。
老人上野(野上正義)がもう動かなくなったメイドロイド(吉沢明歩)と暮らしている。
この家の昭和感がなかなかいい。
丸いちゃぶ台、縁側、北海道土産のしゃけをくわえた熊の置物。
この老人が子どもの頃にロボット開発をしている親に与えられたのがメイドロボットのマリアという設定。
子ども時代の映像には古いブラウン管テレビ(白黒にちがいない)が出てくるので、たぶん上野は僕と同じくらいの年齢。
その時代にそんな高度なロボットがあるわけないわけだがこれはファンタジーなのである。

その上野とマリアの話と並行して、機械による連続レイプ事件の話が進行する。
二つのストーリーは直接からまないのだけど、反転した関係にあって、最後に綺麗にクロスする。
ホスト系モテ男に対するルサンチマンをちらつかせながらも、この映画はこっ恥ずかしいほどの純愛のお話である。

マリア役の吉沢明歩さんがいい。
他の女優がやったら、ないわ、と思うようなセリフも、アッキーだとありに思えてくる。
上手いとは言えないのだけど、清潔さとエロさを兼ね備えた吉沢明歩さんならではの存在感だ。
サイドストーリーの方も設定は面白い。
AIBUってのがなかなか秀逸。
こっちの話ももう少し掘り下げられたらよかったんだと思うけど、そこはちょっと惜しい。
あと最後の「呪文/キーワード」は1回ずつで十分だと思うんだけどなあ。


もう一本は「レイプゾンビ」。
これは面白い!
世界中で男たちが知性を持たず女を犯そうとするレイプゾンビになるという現象が起こる。
そのレイプゾンビを止めるにはペニスを切るしかない!

もちろんこの設定はジョージ・A・ロメロの偉大なゾンビ・サーガを元にしているわけだが、馬鹿馬鹿しくも壮絶で気の利いたパロディーになっている。
パロディーと言ってもちゃんと終末SF的な押さえどころは押さえていて、映画としてはチープなのにけっこうスケール感がある。
いや、それにしてもテ○ドン!
それやっちゃうのか!
ここまでやってくれると不謹慎通り越して痛快。

小沢アリスさん、小林さやさん、亜紗美さん、あいかわ優衣さんがそれぞれタイプの違うヒロインを演じる。
4人それぞれに見せ場があって飽きさせない。
なかでも一番見応えがあったのが巫女姿のカナエ(亜紗美)が日本刀とマシンガンを持ってレイプゾンビたちと戦うシーン。
けっこう本格的なアクションシーンで気持ちいい。
亜紗美さんって「片腕マシンガール」にも出ていた人か。
アクションがちゃんと決まっている。
かっこいい。

童貞オタクの神主役の中沢健もいい味出してたし、特別出演の内田春菊先生も素晴らしい。
やっぱり存在感あるなあ。
特殊メイクとかはしょぼいんだけど、それもまた味。

あと、受胎告知とアマテラスの岩戸隠れをテーマにした古今の名画が多数使われているんだけど、この罰当たり具合もいい感じだ。
やっぱこういうことやってこそのB級ですよ。
満足。


「メイドロイド」も「レイプゾンビ」も続編があるので、友松監督特集はまだまだ続くよ。
次回は来月第2水曜の予定。

芸術、デザイン、お色気はさんで創作落語

7月5日は盛りだくさんな日だった。
創作落語の会「ハナシをノベル!!」に行くのが主目的だったのだけど、どうせ中之島に行くのなら、と中之島界隈で予定詰め込んだのだ。
貧乏性なのである。

まずは7月15日までの国立国際美術館「美の饗演 関西コレクションズ」展。
マティスの絵のポスターでこのタイトルだと誤解を招くんじゃないかと思う。
この展覧会はざっくり言っちゃうと「20世紀西洋アート史を振り返る」って感じの展覧会。
一番古いのがセザンヌの1990年頃の絵画で、一番新しいのはミリアム・カーンの2011年の絵画なのだが、ほとんどは20世紀の作品で、それが大体時代順に並んでいる。
日本人を含め、アジア作家の作品はなく、南アフリカの作家のが一つあるけど、だいたヨーロッパとアメリカ中心のセレクト。
そういう意味では非常にオーソドックスに20世紀アートを俯瞰した展覧と言えると思う。
「美の饗演」というタイトルが今ひとつに感じるのは、僕の理解しているかぎりでは「美」は必ずしも20世紀アートの中心的なテーマではなかったからだ。
実際、美、と言われると、ちゃうやろ、という作品多い。

関西の6美術館の所蔵品から選んだ作品で、実はかなりの作品は見たことがある。
しかしこうやって20世紀アートのパースペクティブの中に置いてみると、すっと腑に落ちるものがある。
昔見た時、なんじゃこれは?と思ったルーチョ・フォンタナの、キャンバスにナイフで切れ目入れただけの作品とか、ミニマリズムのほとんど何も描いてない作品とかも、その時代の文脈の中で意味を持っていたことがなんとなく分かる。
よかったのはジョゼフ・コーネルとマーク・ロスコ・
コーネルは5作、ロスコは4作展示されていて、それぞれほぼ1スペースを埋めている。
コーネルの作品は非常に繊細なので、他の作家と並べずに1スペース使ってくれたのはよかった。
ロスコはやっぱりあのサイズで見ないと。
ブランクーシやジャコメッティやアルプの立体作品もさすがに存在感があった。

こうやって20世紀アートを俯瞰すると、ああ、20世紀アートってもう「現代アート」ではないんだ、という当たり前の事実に気がつかされる。

次に行ったのが東洋陶磁器美術館、「森と湖の国 フィンランド・デザイン」展。
主にガラス作品の展覧会。
東洋陶磁器美術館は初めて。

まず、思ってた以上に点数が多くて、びっくり。
実はもっとこじんまりとした展覧会かと思っていた。
18世紀後半から現代までのフィンランドのガラス・アートが、こちらも大体年代順に並んでいる。
フィンランドのガラス工芸の歴史なんて全く知らないわけだけど、丁寧な解説パネルがついていて、理解を助けてくれる。
しかしそんな解説がなくても、並べられたガラス作品はどれも息を呑むほど美しい。
ほとんどの作品には作家名がついているので、作家ごとの個性の違いを見るのも楽しい。
カイ・フランクとかタピオ・ヴィルッカラとかティモ・サルパネヴァとかオイヴァ・トイッカとか、今まで聞いたことのなかった作家名が、展覧会を一通り観終わる頃には馴染み深い名前になっている。
トイッカいいよ、トイッカ!
常設展も充実していて、ちょっと時間が足らないくらいだった。
期間中にもう一回行ってもいいくらい。
実駒も好きそうなので、もう一回行こうかな。
7月28日まで。

さて、その後は作家の安孫子武丸さんたちとTHE HOOETERSというビアガーデンで一杯。
実はTHE HOOTERSってよく知らずに行ったんだけど、ぱっつんぱっつんのタンクトップにホットパンツのお姉さんがいるビアガーデンなのでした。
中之島では川べりで期間限定でオープンしている。
いい気分で飲む。

7時から中之島公会堂で、この日のメインイベントの「ハナシをノベル!!」。
小説家が書き下ろした新作落語を月亭八天改め月亭文都さんが演じる、落語家と小説家のコラボレーション落語会。
今回が第39回。
この日の演目は酉島伝法さんの「人間そっくり」と田中哲弥さんの「わあわあ言うております」。
「人間そっくり」はロボットものの落語。
ロボットものの落語、というジャンルはないと思うが、この「ハナシをノベル!!」ではそれくらい当たり前なのだ。
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」的なネタで笑わせてくれる。
そして、田中哲弥さん原作の「わあわあ言うております」はなんとメタ落語。
これはすごいわ。
ようこんなアホなハナシやんなあ。
実に実験的で、しかもちゃんと面白い。
いいものを見せてもろうた。
中入り後の桂三扇さんの「悋気の独楽」もオーソドックスに面白かった。
8月は第40回なんで、そちらもぜひ行きたい。
東京でも7月28日にやるらしいので、関東の人もチェックするといいよ。
牧野修さんの怪作「がしんじょ長屋」、クトゥルー版とかやるらしいよ。

B級ナイト通常運転(その2)

二本目は「吸血男オクトマン」。
1971年のアメリカ映画。
こっちは打って変わって、最初からB級色全開!
いきなり冒頭、タコ人間が暗闇から現れる。
タコ人間、手が4本あって、足が二股に分かれているので、それでなんとか八本足は確保している。
しかし、着ぐるみでタコを表現するのがそもそも無理がある。
蛸の八ちゃんかよ!
なんか手振り回してるけどかわいいぞ!

映像も演出も編集も演技も何もかも素人くさい。
なんかホームビデオ並みの映像だ。
そこに70年代初頭の安っぽいキーボードの変な音とかがかぶる。
たまらん。

舞台はメキシコ。
放射能汚染の調査をしている科学者が主人公。
そこで奇形のタコを見つける。
奇形のタコだと言われても、一見して作り物と分かることを除いて、どこがどう奇形なのかよく分からない。
主人公が環境なんとか機関に資金の申請に行っている間に、そのタコを取り返しにオクトマンがやってきて最初の犠牲者が出る。
あのタコ、子どもだったのかね?
ガッパ?
なんとか機関からお金が出ないので、サーカスとかのプロモーターみたいな男に資金援助を頼みに行く下りもよく分からない。
オクトマンを見世物にして売ろうというのだろうか。
主人公の目的は放射能汚染の実態を調査することではなかったのであろうか。
様々な疑問を孕みつつ、物語は脈絡なく展開する。
オクトマンはかなり出ずっぱりである。
フラグとかなしにいきなり出てくる。
油断できない。
ちなみにオクトマンから見た映像がなんか、複眼で見てます、的な映像なんだけど、タコは複眼ではない。
オクトマンも複眼にはなっていない。

いちおうオクトマンがヒロインをお姫様だっこして連れ去るお約束シーンもあるけど、オクトマンが人間の女性に恋したのか、それとも隠れ家に持って帰ってゆっくり食べようとしたのか判然としない。
ヒロインの方は、なんかそれでオクトマンと自分に特別な関係があるように感じるみたいなんだが自意識過剰ではないだろうか。
けっこういい年だろう、あなた。
網で捕まえたオクトマンを見張りつつヒロインともう一人の男が何かロマンチックな会話を意図したと思しきよく意味のわからない会話をしている間にオクトマンがいきなり現れる。
網を破るシーンとか全くなし。
何を見張っていたのか君らは。

突っ込みどころ満載な映画なのだが、俺たちのタコ人間を見せたい、というシンプルな願望が一貫していて気持ちいい。
一貫しているのはそこだけで、後は一貫したものは何もない。
環境汚染がどうとか人間の存在がどうとか永遠がどうとか、セリフには出てくるけど説得力は全くない。
主人公のロマンス・グレーの科学者も最後まで何考えてるのか分からない。
でもこういう映画に「ヒロシマ」とか引き合いに出すの止めて。
それ不謹慎ですから。

オクトマンの造形はリック・ベイカーだそうだ。
後に「スター・ウォーズ」とか「狼男アメリカン」とか「ヴィデオドローム」とかを手がける特殊メイクの神様だ。
青春の1ページだね。
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