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風立ちぬ

今頃「風立ちぬ」かよ!
と思われるだろうけど、今頃「風立ちぬ」である。

実は「風立ちぬ」は9月に一度観ている。
先代のパソコンがご臨終あそばして、パソコンレスな生活を送っていた、世に言う「空白の2ヶ月」のことであった。
派手な見せ場もないので少々退屈しながら観ていたら、ラスト近くになってじわじわと涙が湧いてきてきてしばらく止まらなかった。
あまり経験したことのない映画体験だった。
MOVIXでまだ一日一回上映が続いているので、もう一回観にいったのである。

この映画はそれまでの宮崎駿監督の映画とは趣が違う。
これまで宮崎駿の映画は主に子供に向けて作られてきた。
それらの映画では、描かれたものを理解すればいいように作られていた。
それに対して、この映画は「描かれていないもの」に意味があるように思う。
この映画が描かないのは「個別の死」である。
関東大震災や第二次世界大戦を背景にしながら、この映画の中で誰かが死ぬシーンが描かれることはない。
堀越二郎の「零戦」を読むと、零戦の開発過程でテストパイロットが二人亡くなっていて、そのことが大きく描かれているが、映画はそれも描かない。
堀辰雄の「風立ちぬ」はヒロインの死のシーンを描かないことは同じなのだが、それ以前に病棟の患者が自殺したり病死したりするシーンがある。
その描写も映画にはない。
宮崎映画はそれまでも死をあからさまに描くことを避ける傾向があったが、それとは異なる。
死を直接描いていないにもかかわらず、この映画には常に死の影が立ちこめているからだ。

ではなぜ宮崎駿は個別の死を描くことをこれほど慎重に避けているのか。
それは人が死ぬことは当たり前だからだ。
それはこの映画の前提条件なのである。
戦争では多くの人が命を落とす。
しかし戦争がなくても、天災に遭うかもしれない。
運良く戦争にも天災にも遭わなくても病気になるかもしれない。
大きな病気にかからなくても、やはりいずれ人は死ぬ。
だから与えられた時間は十年だとこの映画は言うのだ。
十年の月日が与えられない人もいる。
運良く十年を超えて時間を与えられる人もいる。
しかし百年与えられる人間は少ない。
与えられる時間は決して長くはない

この映画は一見この時代を美化しているように見えるかもしれない。
そうではない。
戦争に向かう暗い時代にも懸命に生きようとした人がいることをこの映画は描いているのだ。
時代のせいにするな、と言っているのだ。
生まれてくる条件は選べない。
与えられた時間は有限だ。
それを受け入れてその中で精一杯生きろと言っているのだ。

生きている人間は先に死んだ人間の思いを引き継いで生きている。
最近そう思うことが多くなった。
この映画の奈穂子はそんな死者を代表している。
死者をかわいそうだと思うのではなく、死者が精一杯生きたことを認めて、自分はその先を生きるしかないのだ。
死者に背中を押されながら。

この映画をもう一度観ることは当分ないと思う。
それよりも僕は僕に与えられた十年を懸命に生きようと思う。
そんな風に思った一本だ。
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利休にたずねよ

秀吉映画、二本目は「利休にたずねよ」。
利休についてちゃんと勉強したことはないんだけど、利休の出てくる映画は熊井啓監督の「千利休 本覚坊遺文」と勅使河原宏監督の「利休」を観ている。
なんとなく気になる人物なのである。
気になるのは一つは利休というのがよく分からないからだと思う。
西洋的な意味でのアーティストなのかというとそうでもない気がする。
西洋的なアーティストというのは何より「作品」を作る人だと思うんだけど、利休の場合「作品」というのが何になるのかよく分からない。

この映画の中で、利休が信長に、水を張った硯箱の蓋に空の月を映して見せる、というシーンが出てくる。
この美のあり方は、その瞬間、その場にいないと体験できない。
その一回性というのが利休の美の一つの特質なのではないかと思った。

また、利休が茶の席で秀吉にひえの粥を振る舞うシーンがある。
農民出身の秀吉は昔を思って涙するのだが、このシーンでの茶はまるでカウンセリングのようだ。
西洋的なアートというのは、作者、作品、鑑賞者がある程度独立しているということが前提にあるように思う。
作品は作者からある程度独立して価値を持ち、鑑賞者はそれをある程度客観的に鑑賞できる。
しかし、利休が茶を降るまい、それを秀吉が受けるとき、利休、茶、秀吉の間に主客のはっきりした境はない。
そんなところが利休の美学の特質なのかな、と観て思った。

さて、映画としてだが、これは風格のある、「清須会議」とはまた違った魅力のある映画だ。
利休切腹の直前から始まり、一度時間を遡って、そこからまた少しずつ切腹のときに近づいていく。
再び切腹の朝まで来て、今度はさらに若いときに遡る。
そこで利休の秘められた恋が語られる。
相手は高麗の女で、言葉の通じない二人が漢字を書いてやり取りするシーンは感動的だ。
同じ漢字文化圏の二つの国だからこそ成り立つコミュニケーション。
そして、その女への思いに気づいた利休の妻宗恩の葛藤。
ラストは深い余韻を残す。
涙がこぼれた。

映像に気品があり、利休役の市川海老蔵、宗恩の中谷美紀、秀吉の大森南朋ら役者陣も充実。
瓦職人の長次郎を柄本明がさすがの貫禄で演じている。
田中光敏監督作品を観るのは初めてだけど、日本映画の底力を感じさせる一本だった。

あと、秀吉特集的に面白かったのは、大泉洋と大森南朋というタイプの異なる役者が演じる秀吉像もさることながら、「清須会議」で織田信長の弟、織田三十郎信包を演じた伊勢谷友介が「利休にたずねよ」で織田信長を演じていて、「清須会議」で秀吉の妻寧を演じた中谷美紀が「利休にたずねよ」では利休の妻宗恩を演じている、というところ。
伊勢谷君は織田信長系の顔、というのは誰しも思うんだな。
中谷美紀さんは、「清須会議」では陽気でノリノリの寧を、「利休にたずねよ」では対照的に物静かだがうちに情熱を秘めた宗恩を演じ分けていて感心した。
二本とも合戦や派手なシーンはないんだけど、時代劇ならではの醍醐味に溢れた見応えのある映画だった。
甲乙つけ難し。

清須会議

たまには今の映画についても書くよ!
先日MOVIX京都で「清須会議」と「利休にたずねよ」の二本をはしごして観てきた。
もしかすると勘づいている人がいるかもしれないが、僕は勝手に特集を組んで映画を観るのが好きだ。
この日観た二本は同時代で、両方織田信長、豊臣秀吉が出てくる。
特に秀吉が大きな役で出ている。
というわけでこの日の二本は「秀吉映画特集」なのだ、

と言っても、僕はいわゆる戦国武将というものにほとんど興味がない。
中学高校の頃僕は歴史が嫌いだったのだが、その理由は、今考えると、僕は政治家と軍人に興味がなかったのだと思う。
そして中学高校で習うのは主に政治家と軍人の歴史である。
武将というのは政治家で軍人なので、そもそも興味が薄いのだ。

なのに「清須会議」を観ようと思ったのは、もちろんこれが三谷幸喜監督の作品だからだ。
と言っても、三谷映画は最初の「ラヂオの時間」しか観ていない。
それ以前に舞台をいくつか観ていて、舞台版の「ラヂオの時間」がすごく好きだったんだけど、映画版は舞台ほどは面白くなかった。
やっぱり舞台と映画は違うよなあ、と思った。
そんなわけで、新作映画が出ても、興味はあるけどパス、みたいなのが続いたのだった。

で、この映画だけど、これは「織田信長が本能寺で討たれた後、織田家の跡継ぎを決める会議」を舞台にした映画だ。
これはちょっと興味を引かれた。
普通、映画監督はこんな設定の映画は撮らない。
会議がメインの映画なんて戦前のドイツの「会議は踊る」くらいしか思いつかない。
(観たけどよく覚えていない。)
いや、他にも何本かあるかもしれないけど、まあ普通撮らない。
画面に動きがなくて絵が作りにくいからだ、
これは舞台の脚本、演出家である三谷幸喜ならではの映画になっているんではないか、と期待した。

前置きが長くなった。
もう感想は短めにしときます。
面白かった!
最初の本能寺の変のくだりを除いて、ほとんどが会議の行われた清須城での五日間だけを描いているのだが、その駆け引きの面白さ、個々のキャラクターの描き分けの巧みさ、さすがだ。
そこここで笑わせられながら観ていると、最後にはじわっと感動させられる。
オールスターのキャスティングが見事で、柴田勝家の役所広司、豊臣秀吉の大泉洋はもちろん、小日向文世、佐藤浩市、でんでん、浅野忠信、寺島進等、どの役も一癖あって、リアルだ。
映像的にも、美術が素晴らしくて見応えがあった。
空間の使い方が絶妙。
何より、隅々まで計算され尽くした作りが昔観て感心した三谷喜劇の面白さそのものだった。

あと、鈴木京香たちがお歯黒塗ってたのが印象的。
時代劇で本当にお歯黒塗ってるのってあまり観たことないと思うんだけど、こういう感じなのかあ。
この美意識は分からんなあ。
イカスミパスタ食べたあとみたいだ。

ちなみに三谷監督が参考にしたのは「会議は踊る」じゃなくて「十二人の怒れる男」だそうだ。
あ、それがあったか。
こっちもすごく面白い映画ですよ。

サスペリアPART2/赤い深淵

サスペリア祭番外編ということで、「サスペリアPART2/赤い深淵」を観た。
番外編、というのは、この映画、「サスペリア」とは本来関係がない映画だからだ。
制作は「サスペリア」よりこちらの方が先。
「サスペリア」が1977年、「サスペリアPART2」は1975年の作品。
日本での公開は「サスペリア」の方が先だったので、サスペリア人気にあやかって「サスペリアPART2」にさせられてしまったのである。
1970年代から80年代にかけての海外ホラーの邦題はほんとにむちゃくちゃだったのだ。
「サンゲリア」とか「ゾンゲリア」とか「バタリアン」とか意味のないタイトルつけられたり(そんな言葉は映画の中に出てこない)、「悪魔のいけにえ」「悪魔のはらわた」「死霊のえじき」「死霊のはらわた」等々、限られた数の単語の順列組み合わせみたいな安易なタイトルつけられたり。
「サスペリアPART2」はホラーというよりサスペンスなのだが、当時はホラーの扱いだったんだと思う。
以下、なるべくネタバレしないように書くけど、まだ観たことなくてこれから観る予定の人は読まない方がいいかもね。

実はこの映画は以前観ているはずなんだけど、ほとんど覚えていなかった。
連続殺人を扱ったサスペンス映画で、フーダニットもののミステリーとしても一定の水準に達している。
よく考えるとおかしなところはたくさんあるんだけど、ミステリーとして手堅くまとめている。
映像はトリッキーで華麗だ。
監督デビュー作の「歓びの毒牙」を観たときにも思ったんだけけど、初期のアルジェントはヒッチコック直系のサスペンス映画の技巧派監督だったのである。

しかし魔女三部作を観たあとにこの映画を観ると、最初に書いたようにこの映画は「サスペリア」と直接の関係はないものの、すでに魔女三部作で展開されるテーマが随所に現れていることに気づく。

まず、建築物に対するオブセッションが挙げられる。
魔女三部作が、三人の母神に捧げられた三つの建築物を舞台にしているように、この映画にも物語の核になる建築物が登場する。
その建築物が重要な手がかりであることに主人公が気づくくだりに説得力がないのがこの映画の一つの欠点なのだが、それはともかく、忌まわしい過去をはらんだ建築物、というテーマが魔女三部作に共通している。
この建物がアールヌーヴォー風の装飾を施したなかなか立派なもので、ロケ地選びにはそうとう気を使っているのが分かる。
ていうかイタリアっていうのがこういうロケ地に事欠かない土地なんだろうね。
行ったことないけど。

この建築物に隠された部屋がある、というのも「サスペリア」と共通。
最初の犯罪がそこに封じ込まれているのだが、どうして最初の犯罪が明るみに出なかったのかは謎、というかちょっと無理がある。
しかし、映画を観ているときは映像に説得力があって、おかしいんだけど、まあ許せる。

そして最後に解き明かされる謎は、テーマとしてはそのまま魔女三部作につながるテーマだ。
そこにはアルジェント自身の無意識的なオブセッションが投影されているだろう。

魔女三部作と「サスペリアPART2」を続けて観て、アルジェントに関してはちょっと食わず嫌いなところがあったなあと反省。
ジョージ・A・ロメロみたいな骨太の巨匠ではないけど、独自の美学とオブセッションを持った面白い監督だと再認識。
未見のものも多いので、来年またどこかでかためて観る予定。

伊豆の踊子

毎週火曜の邦画劇場。
今回は「吉永小百合 私のベスト20」第4弾「伊豆の踊子」(1963年日活映画)。
言わずと知れた川端康成原作の、6回映画化されたうちの4度目の映画化作品である。

と言っても実は原作読んでない。
映画化されたの観るのも実は初めて。
僕の世代だと山口百恵&三浦友和ヴァージョンが話題になったけど、観てない。
監督は吉永小百合版も山口百恵版も同じ西河克己監督だそうだ。

最初モノクロで、大学の講義の様子が映される。
あれ?モノクロ映画だっけ?
講義をしているのは宇野重吉。
この宇野重吉の教え子が、浜田光夫で、浜田演じる学生が結婚する予定だと言う現代っ子(当時の)のダンサーを吉永小百合が演じている。
その二人を見つめる宇野重吉の大学教授の回想、という形で時代は大正時代に。
ここから一転してカラーになる。
あ、そういう作りなのか。
「オズの魔法使」形式だな。

若き日の宇野重吉が高橋英樹、というのは無理がある気もするが、高橋英樹、さすがに若い。男前。
最初に現代っ子のルミを演じた吉永小百合が二役で旅芸人の踊子、薫を演じているわけだが、このコントラストが上手い。
日本髪の吉永小百合が清楚で可愛らしい。

で、学生の高橋英樹と踊子の吉永小百合の淡い恋愛が軸になって話が進むわけだけど、この映画は旅芸人や娼婦と言った当時の底辺の人たちを意外にリアルに描いている。
最初に訪れる村の入り口に「乞食と旅芸人入るべからず」という立て札が立っていて、当時の旅芸人が置かれていた社会的背景を端的に表している。
娼婦のエピソードは本筋とはあまり関係ないのだけど、病気で死んでいく娼婦お清を十朱幸代が、その先輩格の娼婦お咲を南田洋子が演じていて、強い印象を残す。
薫の兄の子供が生まれてすぐ旅の途中で亡くなったエピソードなどもあり、全編に死の匂いがまとわっているのも意外だった。
性にまつわる部分もわりとはっきり描いている。
なんかもっとアイドル映画的なの想像してました。
けっこう硬派な映画でした。

インテリ学生の高橋英樹と無学な旅の踊子吉永小百合、と言う組み合わせはちょうど先々週に観た「泥だらけの純情」とは真逆の関係になるわけだけど、外交官令嬢やっても旅の踊子やっても吉永小百合は凛とした可愛さがある。
高橋英樹に「活動に連れて行ってくださいね」と何度も頼む吉永小百合が可愛い。
あ、活動は活動写真ですよ。
映画のことですよ。
旅芸人の座長を浪花千栄子が演じていて、この人、この間観た小津安二郎の「彼岸花」でも山本富士子と京都弁で掛け合いやってたのがすごく印象的だったんだけど、この映画でも存在感発揮してました。

あと、大正時代の風物をかなりリアルに再現していて、そこも見所。
高橋英樹が泊まる宿の部屋の障子に曇ガラスがはめ込まれていてそこに千鳥となんかの草の模様が入っていたり、日本間なのに天井から下がっている電灯の笠がちょっとアールヌーヴォー風だったり、美術も見飽きない。
仁丹の看板とか、広告類も時代を感じさせる。
この時代が好きなので、その辺も十分堪能しました。

原作読んでないので、どの辺が映画の脚色なのか分からないけど、最初と最後のモノクロの宇野重吉は原作にないと実駒が言ってた。
まあそうだろうね。
やっぱ一度は読んどくべきかなあ。
何と言っても日本人初のノーベル文学賞受賞者だからなあ。

次回は石原裕次郎と共演した「若い人」。

サスペリア・テルザ

サスペリア祭はまだ続いているのだ。
今日観たのは魔女三部作最終作「サスペリア・テルザ 最後の魔女」。
2007年、「サスペリア」から30年目の完結編。

最初に告白しておきます。
アルジェントなめてました。
「サスペリア」から「インフェルノ」に直線を引いて、その延長線上に「ダリオ・アルジェントのドラキュラ」を置けば、自ずと「サスペリア・テルザ」の位置は見当つくよなあ、と高をくくってました。
すみません。
反省しました。

今回はわりと本気のオカルト映画である。
僕の知る限り、オカルト映画とホラー映画の違いというのは次のようなことだ。
一般のホラー映画に登場する吸血鬼とかゾンビとかは基本的に空想の産物で、現実には存在しないと観客も分かっている。
それに対してオカルト映画というのは、幽霊にしろ悪魔にしろ、実在するかもしれないもの、を扱うのである。
オカルトの原義は「隠されたもの」だ。
「存在しないもの」ではなくて、「存在するかもしれないが隠されているもの」を扱うのがオカルト映画。
そういう風に思ってていいと思う。
そういう性質から、オカルト映画というのは基本的にリアリズムである。
「ローズマリーの赤ちゃん」しかり「エクソシスト」しかり。
その意味ではアルジェントの映画はあんまりオカルトっぽくないと僕は思っていた。

でもこの映画は現実側をかなり力を入れて描いている。
元々手堅いスリラーから入った監督なので、意外にそういうのもちゃんと描けるのだ。
その現実に魔女の世界が侵入してくる。
その描き方もさすがに堂に入っていて、見応えがある。
何より、ローマというヨーロッパ最古の都市の佇まいが物語に説得力を与えている。
ヨーロッパの闇が画面から立ち上がってくるようなリアリティーがある。
アルジェントはヨーロッパ人、イタリア人としてのアイデンティティーをここで遺憾なく発揮している。
性的な描写も多く、魔女信仰の持つ原初的ないかがわしさを感じさせる。
パゾリーニを生んだ国の監督ならではの猥雑で退廃的な描写で、アメリカ映画でこれは出来ないだろう。
ローマが魔女の力で頽廃していく描写はやや予算不足な感じだが、その代わりに最初にすごく恐ろしいシーンを入れてきていて、思わず悲鳴あげそうになった。
容赦ないな。

しかも「サスペリア」、「インフェルノ」の内容を取り込んでいて、ちゃんと三部作になっている。
これには驚いた。
いや、絶対「サスペリア」の段階ではこういう構想じゃなかっただろう、と思うけど、ちゃんと辻褄合わせてきている。

何本か続けてアルジェント映画を観ていると、アルジェントは本当は男に全く興味ないんだなあというのがよく分かる。
何人か出てくる男たちはみんな基本脇役で、重要な部分はみんな女なのである。
その辺もイタリアの監督らしいと言えばイタリアの監督らしい。
主人公側の女も魔女側の女もとても生き生きしていて魅力的だ。
特にパンクな現代魔女たちが面白い。
日本人の魔女も出てきて、強烈なインパクトを残す。
男の方はだいたい不甲斐ない。

建築と書物に対するオブセッションを感じさせる映像は重みがあって美しい。
それで通せばちゃんと巨匠の風格なのに、チープで悪趣味なシーンもちゃんと入れてきていて、そこら辺はアルジェントらしいなあ。
いや、褒めてますよ。
ラストに登場する最後の魔女である「涙の母」がえらく安っぽくて、しかも結末も実にあっけないのが欠点だが、まあアルジェントに完璧を期待していないので、そこはオーケー。
その詰めの甘さも含め、アルジェントの集大成と言うにふさわしい作品になっている。
それに最後の魔女にモデル上がりのピチピチの女の子を当ててるのはアルジェントの狙いなのではないかという気もする。
この通俗的で魅惑的で扇情的な女のイメージがアルジェントの考える魔女のイメージなんだと思う。

主人公のサラにアルジェントの娘のアーシア・アルジェント。
母親役は、そうじゃないかと思ったんだけど、実の母親のダリア・ニコルディ。
てことはアルジェントの奥さんか。
めちゃくちゃ家庭的なキャスティングだ。
もったいぶって出てくるわりにすぐ死んじゃうヨハネス神父はウド・キア。
いろいろ出ている人だけど、何と言ってもアンディ・ウォーホルが制作を担当した「処女の生血」でドラキュラ伯爵を、「悪魔のはらわた」でフランケンシュタイン男爵を演じた人として僕の中では永遠の変態俳優だ。
動物を巧みに使うことでは定評のあるアルジェントだが、この映画の猿は名演と言っていい。
音楽はゴブリンのクラウディオ・シモネッティ。
ここでもいい仕事してます。

ところで、タイトルの「サスペリア・テルザ」だけど、テルザなんて人はどこにも出てこない。
英語タイトルは「MOTHER OF TEARS」で、誰だよテレザって思ったんだけど、これはイタリア語タイトルの「LA TERZA MADRE」から取ってるらしい。
TERZAは「第3の」という意味の形容詞「terzo」の、語尾が女性名詞にあわせて変化した形。
タイトルは「第3の母」という意味になる。
発音は「テルツァ」に近いと思うけどね。
そんなわけで、どこ見てもテルザは出てきませんよ。

インフェルノ

水曜B級ナイトは先週に続いてダリオ・アルジェント魔女三部作。
アルジェントはB級じゃない!とお怒りの方もおられると思いますが、その辺わりと適当なのでご勘弁。

今日観たのは魔女三部作第2作の「インフェルノ」。
1980年の、なんと20世紀フォックス映画だ。
観るのは初めてなんだけど、実はサントラは聴いている。
今回はいつものゴブリンじゃなく、キース・エマーソンなのだ。
エマーソン・レイク・アンド・パーマー、略してELPのエマーソンですよ。
といっても若い人は知らんじゃろうなあ。
ツタヤで「タルカス」とか「展覧会の絵」とか借りてみてはどうかのう。
キース・エマーソンはアニメの「幻魔大戦」の音楽もやっとるが、これも知らんじゃろうなあ。
まあ、どうしても観にゃいかん映画ではないが、音楽はよいぞ。

で、「インフェルノ」だ。
魔女三部作と言っても、「サスペリア」と話が続いているという訳ではない。
ないと思うけどな。
ウィキで見たら、この映画に原作小説があるのを知ってびっくりした。
原作小説あってこれなのか。
アルジェントすげえ。
だって、ストーリーあってないようなもんだよ?

いや、いちおうストーリーありますけどね。
ストーリーを追おうという気にそもそもならない作りなんだよね。
突っ込みだすとキリがないし。
かっこよく言えば、この映画は最初から夢の論理に従っている。
たぶん、アルジェントの映画はどの映画もたいていそう。
現実的に考えるとありえないことが次々起こるんだけど、それが夢の中で起きる出来事のようなリアリティーを持っていて、その波に乗っていると、矛盾もさほど気にならない。
でも一度冷静になってしまうと何もかもおかしい。

この映画でも、赤と青と黄色の、お化け屋敷みたいなライティングが強烈だ。
水とかガラスとか布とか言った素材をアルジェントは巧みに使う。
特に、ガラスはアルジェント映画に欠かせない素材だと思う。
空間を仕切るが視界は遮らない。
おぼろげに向こうが見えたり、反射して鏡像を映したりする。
脆くてすぐ割れるが、容易く人を傷つける。
そういう矛盾した特性がアルジェントの個性とよく合うんだろう。
この映画でもガラスが至る所で効果的に使われている。

あとこの映画、猫ホラーでもある。
猫がたくさん出てくる。
猫を虐待してはいけない、というのがこの映画が持つほとんど唯一の教訓だ。
蟻とネズミも出てくる。
そういう動物を使うのもアルジェントは上手い。
と、ここは褒めとく。

最後の方で、ある重要な登場人物が主人公に「謎を解いたな。私が誰か分かっただろう」というのに対して、主人公が「分かりません」と答えるシーンがある。
うん、分からないと思う。
そういう謎解きとかいうロジカルな作りになってないから。
なんのことやら分からない主人公に対して、聞かれもしないのに謎がどんどん明らかになっていくラストは圧巻だ。
全然腑に落ちない。
落ちないままに映像はたたみかけるようにエンディングに向かって突き進むのだ。
キース・エマーソンの華麗な曲にあわせて。

あとびっくりしたのが、前作に引き続き大女優アリダ・ヴァリが出演していることだ。
「第三の男」とか「夏の嵐」とか「かくも長き不在」とかのアリダ・ヴァリですよ。
前作と同じ役なのかと思ったら、そうではないらしい。
よくOKしたなあ。

日本一のホラ吹き男

毎週火曜は邦画特選席である。
あれ?邦画劇場だっけ?
まあどっちでもいいや。

先々週から講談社が出している「昭和の爆笑喜劇DVDマガジン」を隔週で観ている。
先々週観たのが「ニッポン無責任時代」、今週が「日本一のホラ吹き男」だ。
「ニッポン無責任時代」は東宝クレージー映画の第1作で1962年作品。
「日本一のホラ吹き男」は植木等が単独主演した「日本一シリーズ」の第2作目で1964年作品。
監督は二作とも吉澤憲吾。

「ニッポン無責任時代」も面白かったけど、個人的には「日本一のホラ吹き男」の方が面白かった。
「ニッポン無責任時代」は高度経済成長期の日本で会社のために一生懸命働いているものの、本当の自分はこうじゃないんじゃないかと思っているサラリーマンの琴線に触れるアナーキーさが魅力なのだと思うけど、残念ながらその前提になる文脈を僕が共有していない。
僕は未だにサラリーマンの生活というものを上手く想像できない。
マンガで、このジャンルは描けない、と思うものの筆頭がビジネスマンガで、その次がスポーツマンガだ。
もっとも「ニッポン無責任時代」のスタイルは、風来坊がある町にやってきて去っていく股旅ものの一種ともとれる。

「日本一のホラ吹き男」もサラリーマンものに違いないのだが、こちらはタイトル通り大きなホラ話で、話がどんどん飛躍するのが楽しい。
この年の話題だった東京オリンピック(前のね)のネタから入って、すぐに植木等演じる初等(はじめひとし)のご先祖様(もちろんこちらも植木等が演じている)の話になる。
この時代劇のパートが、なにしろ東宝映画なんで、美術も衣装も本格的だ。
すごく贅沢な作りをしている。

元々三段跳びの選手だった初等が、ご先祖様を見習って三段ステップで大会社で出世していくという、言ってしまえばそれだけの話なんだけど、そのトントン拍子で話が進んでいく疾走感がかっこいい。
ヒロインを浜美枝が演じていて、そのせいもあってか、仕事も女もものにしていく初等がまるでジェームズ・ボンドみたいだなあ、と思ったら本当に後半はスパイものみたいな感じになる。
もっとも浜美枝が日本人初のボンドガールを演じる「007は二度死ぬ」は1967年作品で、こっちの方が先なのだ。

谷啓演じる技術者がひどいどもりで、お酒を一定以上飲むと急に流暢にしゃべりだす、というのがおかしかったんだけど、これ今だとアウトだろうなあ。
「どもり」がもうアウトだからなあ。
その技術者が開発した発明品が冷暖電球、という冷房と暖房と照明を兼ねた電気製品なんだけど、照明はともかく冷暖房はすでにエアコンで一体になってる訳で、先見の明がある。
そういうところも時代を感じさせて面白い。

時々ミュージカルみたいに登場人物が歌いだすのも楽しい。
なんといってもクレージーキャッツはミュージシャンなのでその辺はお手のものだ。
しかも、なんか弱気になったときに聞くと元気出る歌なんだよね。
お父さん世代のサラリーマンもこの歌に元気づけられてたんだろうなあ。

これからも吉永小百合と交互にこのシリーズ観ていく予定。
東宝喜劇がなんと50本!
ほとんど観たことない映画ばっかりなので楽しみです。

サスペリア

この間、「ダリオ・アルジェントのドラキュラ」という新作を観たのだが、考えてみると僕はアルジェントの作品、あんまりきちんと観てない。
代表作の「サスペリア」も昔テレビで観ただけだしなあ。
劇場で観たのは「フェノミナ」と後1、2本かなあ。
そんなわけで、今週来週でいわゆる魔女三部作を観ることにした。
今日は「サスペリア」である。
1977年のヒット作。

今観ても脚本に関してはあまり上手く出来ているとは思わない。
思わせぶりに出てくる登場人物も生かしきれていないし、張った伏線を拾っていないところもある。
前半のシリアルキラー的な部分と後半のオカルト的な部分が今ひとつ上手く接続できていないようにも感じる。
秘密であるはずの扉は分かりやすすぎるし、魔女がダンス学校で何をしようとしていたのかも結局よく分からない。

しかし、誰しも認めるようにこの映画の映像と音楽の織りなす悪夢的な迷宮性は今観ても衝撃的だ。
こんなテンションの映画はそうない。
熱に浮かされて見る悪夢さながらのイメージが続く。
脚本の割り切れなさが、逆にイメージを膨らませているところもある。
例えば、この映画に出てくる金髪の美少年は最後まで観ても何者なのかよく分からないんだけど、そういうよく分からない部分が残るところにこの映画の面白みがある。
「エクソシスト」や「オーメン」といったアメリカのオカルト映画の脚本は良くも悪くももっと筋が通っていて、すっきり割り切れる分この悪夢のような感じはない。

この映画においてはアルジェントの美意識は最初から最後まで一貫している。
まあ、この感覚に頼った演出法が仇になって後年のぐだぐだ感のある映画につながっていくんだと思うけど、この時点でのアルジェントの充実ぶりはやはり素晴らしい。
次回は「インフェルノ」。

レイプゾンビ3

水曜日はB級ナイト。
今日は友松直之監督作品「レイプゾンビ3」。
と、その前に「けっこう仮面2」。
「レイプゾンビ2」観たのが8月7日、「けっこう仮面」が7月24日か。
間空き過ぎだろ。

「けっこう仮面」の実写化作品をすべて観るという、なんの行だか分からないタスクを自分に課して、2作目。
すでに後悔している。
しかし計画に変更はない。

「けっこう仮面2」は
1992年の作品。
監督は秋山豊という人。
この監督が「2」と「3」を撮っている。
夏綿けい子役の青木クリス以外は配役もほぼ総取り替え。
高橋真弓は中島理絵。
サタンの足の爪に九十九一。
面光一に朝岡美嶺。

中島理絵さんの高橋真弓はわりと原作のイメージに近い。
好演と言ってもいい。
けっこう仮面はあいかわらず台詞棒読みですが、それなりに頑張っていると思う。
九十九一のサタンの足の爪は1作目のポール牧に比べると大人しい。
その代わり、教頭に大泉滉という芸達者な人が入っているのだけど、残念ながら力を発揮できていない。
全体にテンポが悪くて、ギャグはことごとくすべっている。
保健室に行ったらメメクラゲにかまれた上半身裸の少年がいた、というのが一番面白かった程度。
アニメ部のオタクが見せ合っているビデオがβだとか、そんなところくらいしか見るところがない。
帰ってきたウルトラマンの団時郎(団次郎)が頑張っているし、怪優山本竜二も悪くないんだけどね。
ラストに新任教師のひややっこ先生役で永井豪先生が出ているのが救い。

もやっとした気分になったところで、友松監督の「レイプゾンビ3」。
こっちは面白かった
何と言ってもテンポがいい。
たたみかけるようにシーンが進んでいく。
キャラクターが濃くて、それぞれにドラマがあるのもいい。
何より、このどろどろとしたパッションというか、マグマのように熱を帯びた映画への愛がここにはある。
1作目で死んだノボルやカナエがクローンで安易に復活しているのも気にならない。
全然オッケー。
後半のアキバ帝国、リア獣、女村(アマゾン)入り乱れてのカオスっぷりも気持ちいい。
そこの流れるアヴェ・マリアも不思議と合っている。
その最中のマキとシンジのセックスが切ない。

ラストは完結編である「4&5」につながる形で終わっている。
派手なアクションが期待できそう。

こうして見ると歴代の「けっこう仮面」実写化作品に何が欠けているかよく分かる。
永井豪先生の作品のエロとヴァイオレンスとギャグは錆び付いた常識を破壊する武器だった。
その毒気が実写化作品にはないのだ。
予定調和のゆるいお笑いなんかいらないのだ。
それよりも熱いパッションと常識に刃を向ける反逆精神が見たいのだ。
少なくとも友松作品にはそれがある。
完結編期待しています。

ところで「レイプゾンビ3」、うちのデッキ2台ともバグが出るんだけど、こういうのメーカーに言ったら交換してもらえるのかなあ。


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