ロープ

毎週木曜を月極映画祭として、1月2月はヒッチコック特集のはずだったんだけど、あまり観れてない。
8本観れる予定だったんだけど、これで3本目。

「ロープ」は1948年の異色作。
ヒッチコックの初のカラー作品だそう。
「ゼロ・グラビティ」で長回しの話を書いたけど、この映画、僕の数え方が間違ってなかったら、最初から最後までで5カットしかない。
もっとも途中カメラが人物の背中にぴったり寄って、画面が暗くなって次のカットにつなぐ、というずるをやっているので、実際にはその倍くらい。
当時のフィルムは一回に10〜15分ほどしか撮れなかったので、そうやってつないだらしい。(ウィキ情報)
カットが変わるところも時間が飛んでないので、劇中の時間経過と観ている観客の時間経過が一致する。

これ、原作が一幕ものの舞台劇なのである。
それを映画でやってしまった、という作品。
舞台を映画にすると、自由度が増しすぎてつまらなくなることが多いのだが、そこはヒッチコック、あえて映画の自由度を犠牲にして緊迫感に満ちた映画にしている。

冒頭、二人の青年が同じ年頃の青年をロープで首を絞めて殺してしまうところから始まる。
最初のタイトルカットだけ、部屋の外から映していて、2カット目からは室内オンリー。
殺した青年をチェストに隠し、そこへ人を招いてパーティーをする、という趣向。
チェストの上に燭台や食器を置いてそこでみんな(殺された青年の恋人や父親もいる)が歓談する、というブラックな設定である。
二人の青年の一人は、殺人は優秀な人間の特権と言う考えの持ち主で、映画の中ではニーチェの超人思想の話が出る。
ニーチェは読んでいないのでよく知らないが、ドストエフスキーの「罪と罰」に同じような考えが出てくる。
招かれた客の一人がジェームズ・スチュアートで、彼が探偵役。

最初に殺人シーンが描かれているので、ミステリーとしてはいわゆる倒叙形式である。
倒叙形式と言うと「刑事コロンボ」が有名だけど、実は今「刑事コロンボ」のDVD観てるので、ジェームズ・スチュアートがコロンボに見えてしかたなかった。
コロンボよりだいぶかっこいいですが、探偵と犯人の心理戦、という意味では同じ。
また、「罪と罰」も倒叙型と言えなくないのだけど、そのラスコーリニコフとポルフィーリィの関係にも似ている。

窓から見えている風景はたぶんセットなのだけど、夕方から夜にかけての時間の経過をセットで表現している。
もう一つ上手いのは、向かいにネオンサインのある店があって、クライマックスでそのネオンが付くのだ。
赤と緑の光が交互に入ってきてクライマックスの雰囲気を盛り上げる。

実にトリッキーで計算され尽くした、ヒッチコックでないと撮れない、というより撮ろうと思わないような映画。
実験的で、同時にエンターテイメント。
クール。
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東宝特撮ナイト第4夜(「日本誕生」)

また古い映画に戻る。
東宝特撮ナイト第4夜は、1959年の「日本誕生」。
初見。
いや、これ東宝特撮映画ってくくりでいいの?
監督は巨匠稲垣浩(実は初めて観る)だし、主演は三船敏郎で、中村鴈治郎、田中絹代、原節子、鶴田浩二、etc.ってキャスティングなんすけど。

何しろ東宝映画1000本記念ということで、めちゃめちゃ力が入っている。
お金もかかってる。
セシル・B・デミルの歴史スペクタクル映画みたいのがやりたかったんだろうなあ。
古事記、日本書紀をベースに、基本的にヤマトタケルの物語を描いている。
この世の始めからイザナギ、イザナミの国生みまでが冒頭、老婆(杉村春子)の語りという形で描かれる。
その後は、ヤマトタケル(三船敏郎)のエピソードが中心なんだけど、途中、やはり老婆の語りという形でアマテラス(これが原節子)の天岩戸隠れのエピソードが挿入され、ヤマトタケル自身の語りという形でスサノオ(三船敏郎の二役)の八岐大蛇退治が描かれる。
とにかく日本神話のおいしいところを3時間ぎっしり詰め込んだ感じの映画。
この、日本神話の一番面白い部分を円谷特撮で観れるのだから、なんともありがたい映画である。
いや、面白かったですよ。本当に。
音楽は伊福部昭だし、平田昭彦もヤマトタケルの参謀役で出ているので、東宝特撮映画っぽさも十分ある。

前半はヤマトタケルのクマソ征伐な訳だけど、ヤマトタケルと言えば女装である。
え?三船が女装するの?
と思ってたら、本当に女装してて驚いた。
三船は三十代も後半、桑畑三十郎、いやもうすぐ四十郎だが、の「用心棒」は2年後である。
おなかも少し出ている。
それでもやる時はやるのだ。
三船の女装が見れるのはこの映画だけ、だと思うけどな。
他にあったら教えてください。

天岩戸隠れのシーンの楽しさはまた格別。
ウズメを乙羽信子が熱演していて、そこに沢村いき雄の助平な神様がからむ。
笑顔の印象的な男の神様がいて、誰だろうと思ったら、エノケンこと榎本健一だ。
芸達者な人がたくさん出てる。
タヂカラオは3代目朝汐太郎、本物の力士である。

後半(長い映画なので途中「休憩」が入る)の見せ場はまず何と言っても八岐大蛇だ。
ここは怪獣映画のノリ。
大蛇そのものはなかなか出来がいいと思うんだけど、三船のスサノオと戦っている感じがしないのが残念。
三船、いかにも誰もいないところで剣振りかざしてるだけだよなあ。
この辺はヒドラとペルセウスの戦いを細かくマッチングさせたレイ・ハリーハウゼンに比べるとだいぶ大雑把な印象。
クシナダヒメが櫛に変身するシーンは同じ年の「美女と液体人間」にちょっと似ている。

クライマックスの天変地異は「空の大怪獣ラドン」ラストの阿蘇噴火シーンをさらにグレードアップした感じで見応えがある。
相当大掛かりな特撮シーンである。
後の「日本沈没」を予感させさえする。
ヤマトタケルが白鳥に変身するシーンはアニメーションが使われているのだけど、そこもよく出来ている。

ドラマ的にも、親子の関係、三角関係など、見所が多い映画なのだけど、そこは割愛。
テーマも、戦うより話し合うことが大切だとか、戦争経験者らしい真面目なテーマが描かれてるけどそれも割愛。
あ、姦臣タテヒノムラジを東野英治郎が好演していることは書いておかねば。
実に憎々しい感じです。

次回は「宇宙大戦争」と「電送人間」。




ゼロ・グラビティ

3日続きでSF系映画を観たのだ。
今日は、やっと、と言う感じで「ゼロ・グラビティ」です。
いやあ、これは面白かった。
最初から最後まで緊張の切れない宇宙サバイバル・ドラマ。
内容については今さらなんでこれ以上書きません。
91分と言う、今の映画にしては短い映画だけど、それ以上に短く感じた。

タイトルのあとの最初のカットがすごく長い。
大写しになった地球の絵から入って、ずっと長回しで、事故の起こるところまで描き切る。
その後の二つ目のカットも長い。
その後は色々だけど、見せ場はだいたい長回しだ。

長回しというのは、本来周到にリハーサルを重ねたあと一気に長いカットを続けて撮るから長回しな訳だけど、この映画では必ずしもそうではない。
例えば二つ目のカットで、宇宙服を着た主人公にカメラが寄っていって、顔のアップまで来たあと、カメラは宇宙服の中に入り込んで、主人公の視点になり、また宇宙服を出て、外から主人公を映す。
明らかに一つのカメラが続けて同じカットを撮っているわけではない。
最初のカットなんて、どれだけの素材から成り立っているのか、考えただけで気が遠くなるような複雑さだ。
CGが発達して、長回しの概念そのものが変わった感じである。
様々なパーツを集めて、一つの長いカットを合成していっているわけである。
正直僕にはどこがCGでどこが普通に撮影している部分なのか見当もつかないのだけど、一つの長いカットを作るのに相当の計算と技術がいることは分かる。
長回しの撮り方が変わっても、長回しの醍醐味はあまり変わらないのかもしれない。

「かぐや姫の物語」と「ゼロ・グラビティ」を観て、僕の2013年がやっと終わった。
ハッピー・ニュー・イヤー!

エンダーのゲーム

昨日「エンダーのゲーム」を観た。
ネタバレ少しあり。
あと、原作ファンの人にはごめんなさい。
先に謝っとく。

実は僕は原作が嫌いだ。
主人公が、子供がそのような環境で育てられるべきでは決してない環境で殺戮者として育てられ、汚い大人の手で本人の知らない間に一つの種族を全滅させる兵器として使われる話である。
どこにいい話の要素があるのか理解できない。
最後の取ってつけたような一章も、大量殺戮を合理化するために設けられたような章で、僕はそこも含めて嫌いなのだ。

それでなんで観にいったのかと言うと、映像がすごそうなのと、予告編で観た主人公エンダーがわりと魅力的に見えたからだ。
最初の方は観ていてやはり好きになれなかった。
なんと言うか、キューブリックの「フルメタル・ジャケット」の兵隊がみんな子供なのだ、と言えば、それがいかにグロテスクか分かるのではないか。
ブラックなところを楽しむ作品だと言うなら分かるんだけど、そうでもない風だ。
みんなそんなに軍隊が好きなの?
エンダーの上司のグラッフと言うキャラクターが僕は大っ嫌いだが、それをハリソン・フォードが演ったからと言って好感度が上がったりしないのだ。

ただ、映画としてそれなりによくは出来ている。
映像もそれなりに面白い。
エンダー役のエイサ・バターフィールドも好演している。

で、最後の大量殺戮だ。
どうにもやり切れない。
ところが、このあとのやり取りが原作と映画では少しニュアンスが違うような気がした。
原作でもエンダーは自分が道具にされたことに抗議するのだが、何となく丸め込まれたような感じの曖昧でもやもやしたものを残したまま、最終章の今さら妙に反省したみたいな、先住民をあらかた滅ぼしたあとに残された孤児は大切に育てました的なエンディングが入る。
滅ぼした当の相手に許してもらうことで、大量殺戮を合理化するようなあざとさを感じる。
何度も言うが僕はこういう自己欺瞞的な展開が大っ嫌いだ。

ところが、映画のエンダーは、自分が道具にされたことに本当に怒っている。
グラッフやメイザー・ラッカムや大人たちを決して許していない。
そして、新しい可能性にかける。
これなら少しは納得ができる。

もしかすると僕の原作の読みが間違っているのかもしれないし、続編がどうなっているのかも知らない。
僕が読んだ原作は改定前のもので、今翻訳が出ている新しいヴァージョンではまたニュアンスが違うのかもしれない。
あくまで僕の原作の読みなので、オースン・スコット・カードが意図したこととは違うかもしれないことをお断りしておく。

でもまあ、子供が軍隊に入るようなことはフィクションの中だけにしてほしい。
現実はそうではないのだが。
あと、同じ戦争ごっこSFなら「パシフィック・リム」みたいなのの方が気楽に楽しめて僕は好きだな。
どちらも本当の戦争とは全く別物なんだから、だったら最初から嘘です、って言っちゃってる方が好感持てる。
戦争ごっこなら僕も好きですよ。

マイティー・ソー ダーク・ワールド

ケネス・ブラナーの前作は劇場で観そびれたので、この間DVDで観た。
魅力的なキャラクターを配しつつ、今ひとつ焦点が絞りきれていないし、映像も地味、という印象。
「ハルク」のアン・リーと言い、文芸系の監督はアメコミ映画向いてないんじゃないかなあ。

さて、監督が変わっての続編だが、今回は面白かった。
アラン・テイラー監督、聞いたことのない名前だけど、この規模の映画をちゃんと撮れる監督が何人もいるのはそれだけ層が厚いということだよなあ。
テレビ出身の監督だそうだが、全然そんな感じはしなかった。
以下特にネタバレはないと思う。

多彩なキャラクターが登場するが、それぞれに見せ場があってバランスがいい。
今回レネ・ルッソのフリッガ(ソーのお母さんね)が素晴らしかった。
思わぬ見せ場があって、おおっと思わされた。
ロキも最高。
すごくいいキャラクターに仕上がっている。
ステラン・スカルスガルドのセルヴィック博士の変態ぶりもいい。
何やらすんだ、って感じの役になってます。
まあ「奇跡の海」の人だからなあ。
そして、僕のお気に入りはダーシー。
眼鏡かけてる時の方がいいと思うけどね。
敵役のマレキスは、特殊メイクを施されているので気がつかなかったけど、クリストファー・エクルストンだ。
「ドクター・フー」ですよ。
新シリーズの最初のドクター(9代目)を演じていた人。
素顔は笑い飯の背の高い方に似てる。
今回はなかなか怖い役です。
浅野忠信のホーガンがもうちょっと出てくれると嬉しいんだけどなあ。

映像もケレン味たっぷり。
やはりアメコミ映画はこうでなくては。
最近はCGが発達しすぎて、かえって何をされても驚かなくなってしまった感があるけど、クライマックスのめまぐるしいアクロバティックな映像はなかなかのもの。
「マン・オブ・スティール」でアメコミ映画のハードルが上がってしまったけど、まず十分楽しめるレベル。

それにしても最近のマーベル映画はすっかりプログラム・ピクチャー化してるね。
なんか観出すと全部観ないと気が済まなくなってて、これはいいように乗せられてると言えなくもない。
商売上手いな。
これはこれで楽しいからいいけどね。

お詫びと訂正Part2

池野めだか(誤)→池乃めだか(正)

たびたびすいません。

お詫びと訂正

トラやん(誤)→トらやん(正)

だそうです。
すいません。

京都府立鴨沂高校演劇部公演「S.」

舞台が続くよ。

京都府立文化芸術会館で第35回Kyoto演劇フェスティバルというのをやっていて、その最終公演を僕の母校である鴨沂高校の演劇部が担うことになった。
友人のあかねこさんに誘われて観にいく。

京都府立鴨沂高校は1872年に日本最初の旧制高等女学校として設立されたなかなかに伝統のある学校なのである。
「八重の桜」に出てきた新英学級及女紅場というのが実は鴨沂高校の前身である。
いや、「八重の桜」見るまで僕も知らんかったけど。
僕がいたのは30年以上前のことだけど、鴨沂高校と言えば自由を重んじる京都の中でもとりわけ自由な校風で鳴る高校だったのだ。
今の勤め先である京都精華大学と、雰囲気が似ている。
学校には恵まれたと思っている。
その鴨沂高校の旧校舎が老朽化のため取り壊して建て直すことになった。
それで去年は卒業生を招いたホーム・カミング・デーというものも催された。
僕も行きましたよ。

さて、鴨沂高校演劇部の「S.」だが、そんな旧校舎建て替えという状況の中、失われていくものに対する悲しみを描いて、エンターテイメントとしても一級品の傑作でした。
いや、高校演劇なめてたよ。
すごいな、鴨沂高校演劇部。

取り壊される直前の旧校舎に忍び込んだ三人の高校生、というシチュエーションから物語は始まる。
図書館の丸窓に見えると言う幽霊を見にきたのだ。
演技も上手いし、テンポもいい。
笑いのツボも心得ている。
場面は一転して、女学校時代の二人の女学生の話に。
こちらは基本的に切ない雰囲気で。
この二人の関係が百合的で、タイトルの「S.」はそれを指してるんだと思う。
「School」の「S」でもあるんだろうけど。

物語は重層的に構成されていて、旧校舎取り壊しに対する思いや学校批判なども織り交ぜつつ、コミカルなパートから切ないパートまで振り幅広く進んでいく。
主張を青臭くなく見せる技量は大したもので、鴨沂の自由な伝統とそれに対するこだわりを一度は笑い飛ばしてみせて(このパートが素晴らしく面白い)、しかし鴨沂の誇りもちゃんと主張する。
この辺は卒業生としては感涙ものでした。
女学生の百合話も、単に鴨沂がかつて女学校だったから出してるわけじゃなくて、二人の別れの切なさが旧校舎取り壊しの切なさにオーヴァーラップしていく展開が見事で、感心した。

演劇が本来持っているリアルタイムな問題に対するアクチュアルな関わりを出発点にしながら、この舞台は鴨沂高校と縁のない人が観ても十分面白いものに仕上がっていると思う。
具体的な個別の事情から出発してある種の普遍性に達している。
不肖の先輩として誇らしい。
いや、演劇部とは直接関係ないんだけど。

鴨沂も制服が導入されたりして、ずいぶん雰囲気変わっちゃったのかな、と思ってたんだけど、今日の公演観たらやっぱり変わらない校風と言うものがあるもんだなって思った。
校舎が変わっても鴨沂の自由と批判精神が変わらず続くといいな、と柄になく母校愛に目覚めてみたり。

あ、この舞台の中で、登場人物の一人が沢田研二の「時の過ぎゆくままに」を歌うんだけど(むろんこの選曲はテーマに絡んでいる)、沢田研二も元鴨沂生なのだ。
沢田研二は中退しちゃってるんだけど。
今でも鴨沂では沢田研二が元鴨沂生って有名なのか、とちょっとおかしかった。

吉本新喜劇×ヤノベケンジ

現代美術作家で京都造形芸術大学教授のヤノベケンジさんが吉本新喜劇とコラボすると言うので観にいった。
ちなみにヤノベさんのはこの間京都文化博物館で展示された「Sun Sister」も見にいったよ。
「Sun Child」の方は水都大阪で見てる。

ヤノベさんの代表的なキャラクターであるトラやんを池野めだか師匠が演じるのである。
吉本新喜劇は子供の頃はテレビでよく見た。
舞台で見るのは初めてだけど、あんまり変わってないなあ。
べったべたなギャグなのだけどなんかおかしい。
初日なせいか、セリフいっぱい間違うんだけど、間違ったとこいちいちギャグにしていくのはさすが。

舞台は万博がもうすぐ開かれる1970年の大阪である。
いいねえ。
池野めだかさんはトラやんこと池野寅次郎という役。
トラやん、最初に登場するときは普通のかっこしている。
なんだよトラやんスーツ着てないのかよ。
吉本的なお約束ギャグが延々続くのだが、なかなかトラやんがトラやんにならない。
ようやくトラやんが交通事故にあって、なんとか博士がトラやんを手術でニュー・クリーン・エナジーで動くロボットに改造する。
ああ、なるほどここでトラやんになるのか、と思ったら、その後もまだ普通の服着て出てくる。
ええー?いつになったらトラやん出てくるの?
なんとか博士はタイムマシンも発明していて、ロボットになってすごい身体能力を得たトラやんを1964年の東京オリンピックに出そう、ということになる。
そのタイムマシンがヤノベ製。
なんか乳母車を改造した感じの。
いちおうSFって言えばSF。

ところが間違って2020年の東京に来てしまうトラやんたち。
東京オリンピック違い。
そこではニュー・クリーン・エナジーは危険なものと見なされているのだった。
ここら辺いちおう3.11以降、というのを意識してるんだと思うけど、まああまりそういう目で見たからと言って何が変わるわけでもない感じです。
いろいろタイムトラベル的な小ネタをはさみつつ、指名手配されたトラやんをある女がだまして秘密組織ゲッカーの基地に連れ去る。
ここで休憩。
って、もう2時間近く経ってるんすけど!
そんな長い劇なのか!
「旅芸人の記録」か!

舞台変わってゲッカーアジト。
もちろん手下は「イー」って言いますよ。
そこまでの吉本らしい舞台と雰囲気違う舞台美術はヤノベさんのウルトラファクトリーの作家さんの手になるものだそうだ。
くそう、京都造形は宣伝上手いなあ。
ここでやっとトラやんスーツを着たトラやんの登場である。
ずいぶん待ったよ。
待ちくたびれたよ。
ここからはこてこてオタクっぽい展開になる。
Mr.オクレが死神博士みたいなコスチュームでゲッカーの首領をやってたり。
アクションシーンもあり。吉本なのに。
そしてラストはあの名作のぱくり。

なんだかんだ言って楽しんで観ました。
うちのギャグマンガコースも吉本とコラボやらないかなあ。
あ、それだと二番煎じっぽいか。
京都造形めー。

アニメ祭(その2)

さて、トリは高畑勲監督「かぐや姫の物語」だ。
昨年末の公開以来早く観たいと思っていたのだけど、結局終映ぎりぎりに観にいくことになった。
まあ、いつものことだ。

「竹取物語」にはけっこう思い入れがある。
高校時代に角川文庫で出ていた対訳付きの「竹取物語」を読んで、そのストーリーの秀逸さに驚いたのだ。
特に、かぐや姫が月で罪を犯して地球に送られてきた、という設定は実にSF的だと感心した。
月人の描き方も、単に月の尊い人間というより、悩みもなく知性的だが、人の情を解さない冷たい一面がある、というように描かれている。
むしろ、悩みや煩悩を持った人間を賛美しているように読める。
こんな物語が千年以上前に書かれていることに非常に感心したのである。

高畑監督の「かぐや姫の物語」は、その「竹取物語」の物語としてのポテンシャルを最大限引き出した作品だと言えると思う。
こんな「竹取物語」が観たかったのだ。
基本的に原作にかなり忠実な映画化である。
しかし、原作にはほとんど描かれていない子供時代のエピソードとキャラクターの内面の描写を加えることで、現代にも通用する物語を生み出した。
「竹取物語」を掘り下げることによって高畑監督はそこに普遍的なものを見つけたのだと思う。

映像も一見ラフに描かれたようで、非常に細やかだ。
自然描写の具体性が素晴らしい。
植物や動物がかなりの種類登場するが、どれも具体的な木や草や虫や獣で、なんとなく木、という描き方をしていない。
草本学的な正確さが物語に説得力を与えている。
アナログ感の溢れる絵だが、実際はデジタル技術を駆使している。
例えば、かぐや姫の部屋の床がつるつるに磨かれていて、そこに人物の影がうっすらと映り込んでいる。
これはアナログで作るのは難しい絵で、デジタル技術の賜物だろう。
それが男鹿和男さんの水彩画と全く違和感がない。

高畑勲監督は「母をたずねて三千里」以来のファンなのだ。
(「アルプスの少女ハイジ」は本放送では観てなくて、後から再放送で観た。)
最初にアニメーションの演出家というのを意識したのは高畑監督だと思う。
その高畑さんが70代も後半になってまだまだ瑞々しい感性を見せてくれる。
とても嬉しい。

一番好きなキャラクターは女童なんだけど、このキャラクター、「白蛇伝」の小青(しゃおちん)の流れじゃないかな。
白娘(ぱいにゃん)と小青の関係とかぐや姫と女童の関係が似ている。
相模はロッテンマイヤーさんだよね。
翁の地井武男さん、媼の宮本信子さんも素晴らしかったけど、地井さんには完成作観てほしかったなあ。
プロフィール

おがわさとし

Author:おがわさとし
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