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仮面ライダー大戦

「平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊」を大の大人二人で観にいく。
いや、それは藤岡弘の本郷猛が出るとあっては行かないわけにはいかんでしょう。

と言っても、僕は昭和ライダーもストロンガーで止まっていて、平成ライダーはほとんど観たことがない。
まあ、話のネタにと思って観にいったのだが、これがなかなか面白かった。
なにしろ、平成ライダー15人、昭和ライダー15人にオリジナルのライダーやら悪役やら出て、さらにスーパー戦隊まで出てきて、上映時間は1時間50分。
ストーリーなんてあってないようなもんだろうくらいに思っていたが全然そんなことありませんでした。
ライダーなめてました。

全体にスケールの大きな大構造の話があって、それがある家族の物語とからんでいて、そのメインのストーリーに仮面ライダーの物語がかなり複雑に絡んでいる。
テーマも「生と死」という重いテーマをかなり正面から扱っている。
それでいて、アクションシーンもたっぷりあって、全編見せ場みたいな映画なのである。
それで上映時間は2時間切っている。
いろいろ無理はあると言えばあるけど、十分立派なものだと思う。

なんでそんなことが可能なのかというと、やはりそこには仮面ライダー40数年の蓄積があるからだろう。
脚本家も監督もその他のスタッフも平成ライダーシリーズにずっと関わってきた人たちばかりである。
昭和の仮面ライダーを観て育ち、それを継承、更新させているプライドが随所に感じられる。

スーパー歌舞伎でもそうだけど、文化と言うのは本来継承されつつ更新されていくものなのである。
僕らの世代は親の世代との間に文化的な断絶がある。
それは戦前/戦後という大きな断絶がそこにあったからで、それは不幸なことだった。
仮面ライダーシリーズが世代を超えて継承され更新されていったのは平和な時代が続いたからだ。
そしてそれが文化にとって本来的なあり方なのである。

ところで、「キカイダーREBOOT」の予告編が流れてたんだけど、こっちはなんだか微妙な感じだなあ。
テレビの方が伝統の継承と更新というサイクルがちゃんと出来ていて、映画の方にそれがない感じがする。
まあ、観てみないと何とも言えないけどさ。
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二十四時間の情事

先週は火曜水曜が遅かったので、木曜月極映画祭のみ。
アラン・レネ特集、3作目は「二十四時間の情事」。
1959年のフランス・日本合作映画。
現代は「Hiroshima mon amour」。
最近は「ヒロシマ・モナムール」というタイトルで紹介されることもある。

大学時代、ということは今から三十年くらい前に一度観て、その時はよく分からなかった。
今観ると、別に難解な映画ではない。
まあ、三十年もすると人間少しは成長するものである。

広島でともに結婚しているフランス人の女(エマニュエル・リヴァ)と日本人の男(岡田英次)が情事を重ねる。
そこに戦争の記憶が重なっていく。
前半はそれまでのドキュメンタリー映画に近い手法で広島の原爆被害が描かれる。
しかし、映画の描くのは、原爆資料館を訪れ溶けた自転車や被爆者の写真や再現映像を見ることで、本当に広島の悲劇は共有されるのか、という問いであり、記憶と認識を巡るアラン・レネ流の思索である。
男はフランス語を話すのだが、「広島」は「ヒロシマ」と発音する。
女は、フランス語ではhを発音しないので、「イロシマ」と発音する。
原爆投下で家族を失った男の「ヒロシマ」と、広島で反戦映画を撮るために来日している女優の「イロシマ」との間にある埋め難い溝。

広島についての話から始まって、物語は女の過去へと遡る。
女はヌベールというフランスの田舎町にいた少女の頃あるドイツ兵と愛し合った。
ナチス占領下のフランスである。
フランスが解放された後、ドイツ兵は殺され、女は祖国に対する裏切り者として周囲から迫害される。
髪を切られ、地下室に閉じ込められ、心を病む。
その体験を聞いて、男は初めてその女を理解出来たと感じる。

男にも女にも家庭があり不倫の関係な訳だが、本質は日本の歴史の中に根っこを持つ男とフランスの歴史の中に根っこを持つ女が本当に理解し合うことが可能なのか、という問いだろう。
それがマルグリット・デュラス脚本の愛の物語の中で問い続けられる。
戦争と記憶と認識を巡る物語ではあるが、抽象的な話ではなく、あくまで具体的な肉体性を伴った物語である。
そこがこの映画のすごいところだ。

あと、クライマックス辺りでエマニュエル・リヴァと岡田英次が駅の待合室で、おばあちゃんを挟んで座るシーンがあって、このおばあちゃんがすごくいい味。
セリフがきれいな標準語なのはちょっと違和感あるけど、いい絵です。
レネのユーモアのセンスを感じる。

空ヲ刻ム者

1週間以上前になるが、スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)「空ヲ刻ム者ー若き仏師の物語」を観にいった。
歌舞伎なんて普段は縁がなくて自分からはなかなか観にいかないんだけど、友人に誘われたのでついていったのである。
実はスーパー歌舞伎は昔「ヤマトタケル」を観ている。
最後にヤマトタケルが白鳥になって飛んでいくシーンは覚えているのだが、あとはあんまり覚えていない。
テーマが露骨に出過ぎているように感じたのは覚えている。
どういうテーマだったかを覚えていないのだが。

スーパー歌舞伎Ⅱは先代の市川猿之助(現・猿翁)から今の4代目市川猿之助が引き継いだものだそう。
歌舞伎を見ないので、歌舞伎とスーパー歌舞伎がどう違うのか、ちゃんと説明出来ないけど、照明や美術、音楽などは現代演劇のものに近い。
歌舞伎の現代ヴァージョンと思えばいいんじゃないのかな。

物語は作・演出の前川知大さんのオリジナルで、平安時代(たぶん)の若い仏師・十和(これが市川猿之助)とその友人で領主の息子・和馬(佐々木蔵之介)を中心に、芸術と宗教、宗教と政治、政治と民衆の関係をドラマチックに描いたもの。
お話自体はすごく分かりやすく、起伏に富んでいて、長い上演時間を感じさせない。
休憩を2回はさんで、なんど4時間半もあるのだ。

美術や照明がとにかく派手で見応えあるのだが、そのド派手な美術・照明に歌舞伎独特の肉体表現が拮抗しているのがたぶんスーパー歌舞伎の醍醐味なんだと思う。
歌舞伎役者の発声法や大見得切る所作は派手な演出に映える。
現代演劇からは佐々木蔵之介さん、浅野和之さん、福士誠治さんの3人が出ているのだけど、この三人もよかった。
特に老婆・鳴子を演じた浅野和之さんの怪演はなかなかに忘れ難い。
クライマックスはかなりアクロバティックなアクションもあって、エンターテイメント性の高さは抜群。
もちろん吊りもあるよ。

あと、女形というのはすごいもんだなあ。
女盗賊の双葉(市川笑也)も悪女の時子(市川春猿)も女性にしか見えない。
何しろ初心者なのでそういうところも感心するのだ。

夜と霧

火曜、水曜とお気楽な映画のDVDを観たあと、木曜はいきなりヘビー。
アラン・レネ監督、1955年のドキュメンタリー映画「夜と霧」。
アウシュヴィッツ強制収容所を題材に、当時の記録映像や写真と、現在(と言っても1955年当時)のアウシュヴィッツ収容所跡の映像で構成されている。
わずか31分の作品だが、その衝撃は筆舌に尽くし難い。

当時の記録映像・写真には見たことがあるものも多かったが、改めて衝撃を受けた。
見たことのなかったものには正視に堪え難いものも少なくない。
しかし、映画は単にショッキングな事実を羅列するだけではない。
写真を改めて映画に撮る、という技法は「ヴァン・ゴッホ」などでアラン・レネが絵画について行った技法でもある。
それはその写真なり絵画なりを改めて見つめ、それを解釈する視線を提示している。
現在のアウシュヴィッツ強制収容所跡を移動カメラが執拗に追っていく視線がそれに重なる。
アラン・レネは、アウシュヴィッツの事実に対してどう向き合うべきかを問いかける。
映像はそこで起こったことを本当に描きうるのかと、人間の想像力の限界を問う。
そして映画は、過去の、自分と関係のない出来事としてではなく、いかに自分の問題としてアウシュヴィッツを考えうるか、という思考に観客を導く。

重い、しかし観られるべき映画。


最近たまたまゲッベルスを扱った「国民の映画」を観た。
先日はヒトラーの愛人だったエヴァ・ブラウンが、DNAテストの結果、ユダヤ人だった可能性が高い、と言うニュースに驚愕した。
図書館で「アンネの日記」が破られる事件もあった。
どうもこの問題について今考えろと言われている気がする。

東宝特撮ナイト第5夜(「宇宙大戦争」と「電送人間」)

東宝特撮ナイト第5夜は1959年の「宇宙大戦争」と1960年の「電送人間」。

「宇宙大戦争」を以前観た時の感想は一言で言えば「地味な映画」、だったのだが、年代順に観るとこの映画の新しさがよく分かる。
1957年の「地球防衛軍」と比較すると、格段に洗練されリアリティーが増した。
今観て地味に見えるのも、当時としては可能なかぎりリアリティーを追求した結果だと分かる。
特に月への宇宙飛行の描写は丁寧で、この映画が作られたのがガガーリンの初の有人宇宙飛行(1961年)以前であることを考えると、相当リアルだと言っていいんじゃないだろうか。
当時の観客にとっては、僕らが「ゼロ・グラビティ」に感じるようなリアリティがあったのかもしれない。
怪獣が登場しないのも、この映画が基本的にリアル志向の映画であるためだろう。
まあ、例によって、絶対零度では重力がなくなる、なんてトンデモな解説は出てきますが。

外国人キャストを多用して「地球規模の危機」を描いているのもいい。
外国人もアメリカ人やヨーロッパ人だけではなく、インド人とかイラン人とかタイ人とかも出ていて、実にインターナショナル。
この映画は海外公開もされているので、その辺も意識しているのだろう。
「クレージー黄金作戦」を観ても思うのだが、今の日本人の方が「邦画に出るのは日本人」という固定観念に縛られてはいまいか。
どうも今の方が日本人は内向きになっている気がするなあ。

「電送人間」は監督が福田純。
本多猪四郎監督に比べるといかにも軽い。
脚本も今ひとつ練り切れていなくて、キーパーソンである仁木博士やヒロインの中条明子の立ち位置も曖昧さが残る。
スタートレックの転送装置と違って電送人間を送る電送装置は送る側にも送られる側にも装置が必要で、証拠を隠滅するためにいちいち高価な電送装置を燃やしたりしていて不経済なことこの上ない。
いろいろ突っ込みどころが多い作品だけど、表情を押さえた中丸忠雄の電送人間はなかなか不気味。
電送シーンの特撮も素晴らしい。
クライマックスのスケール感はさすが。

あと、この頃の東宝映画観ていつも気になるのがキャバレー文化という不思議な文化で、この映画の重要な舞台として「軍国キャバレーDAIHONEI」ってのが出てくる。
これ、当時似たようなのが本当にあったのかなあ。
ヤバすぎだろ、これ。

この映画の元ネタは海野十三の「電送美人」という作品らしいんだけど、この間古本の「海野十三全集」を勢いで買ってしまったので今度読んでみよう。

クレージー黄金作戦

久しぶりの邦画劇場なのである。
2月3月がかなり変則的だったので、ここで聞かれてもいないのに一人映画特集のプログラムについておさらいする。

火曜日:邦画特選劇場(「昭和の爆笑喜劇DVDマガジン」と「吉永小百合 -私のベスト20- DVDマガジン 」を交互に観る)
水曜日:B級ナイト改め、東宝特撮ナイト&邦画ポルノナイト(「東宝特撮映画DVDマガジン」と「日活または東映のポルノ映画+α」を交互に観る)
木曜日:月極映画祭(4月、5月はアラン・レネ追悼特集)

そんなわけで、火曜日は「クレージー黄金作戦」である。
東宝映画創立35周年記念作品というキリがいいんだかなんだかよく分からない1967年の超大作。
制作費1億8000万円、上映時間2時間37分なので、本当に超大作なのである。
いや、2時間37分て、喜劇映画の尺じゃないでしょ。

長いのには長いだけの理由がある。
まずこの映画の主人公は三人。
植木等演じる賭け事好きの円円寺住職・町田心乱、ハナ肇演じる煎餅屋上がりの代議士・板垣重金、谷啓演じる正義感の強い純真な医師・梨本金男。
全然つながりのない三人の話が平行して描かれる。
三人が同じ飛行機に乗り込むのは50分を過ぎた辺りで、それまでそれぞれ無関係に話が進むのだ。
なかなか度胸のある脚本だ。
で、この三人が実に演じている本人のキャラクターにぴったりでおかしい。

そしてそこからはアメリカロケ。
これが実に本格的である。
ハワイからロサンジェルス、そしてラスベガスへと舞台が移動する。
脚本もスケールアップして、ギャングが絡む宝探し映画へ。

こういう記念大作というのは大味になりがちだが、この映画、その豪華さをちゃんと使いこなしていて感心する。
何本か映画を作れるネタを仕込みながら、それを「金」という身も蓋もないテーマで統一している。
その身も蓋もない吹っ切れぶりがこの映画の魅力。
金をかけて金の映画撮ったよ!と言わんばかりの全編、金かかってる感満載の映画。
こういう映画、日本人は苦手だよなあ。
日本人が無理して金かけて豪華な映画撮ろうとして結局貧乏くさい映画が出来てしまった、というケースをいくつ観てきたことか。
それをこの映画は軽々とクリアしてる。
見事だ。

ホビット/竜に奪われた王国

「ホビット/竜に奪われた王国」を観た。
最初から最後まで見せ場の連続であいかわらずクオリティー高いのだけど、今回は今ひとつ乗れなかった。
一つは、これは3部作の2作目の宿命だと思うけど、途中から始まって途中で終わった感が強くて、一本映画観たって言う満足感が得にくかったことがあるように思う。
実を言うと前作けっこう忘れてて、話に入るのにちょっと手間取った。
白状するが、原作も読んでないので、ええとどんな話だっけ?と思っている間にどんどん話が進んで、映像はすごいので引き込まれて観るんだけど、今いちストーリーを消化出来なかった。
まあ、これは観る側の問題ではあるけどね。
あまり熱心じゃない観客にとってはちょっと取っ付きにくい映画だったんじゃないかなあ。
ラストも、ここで終わるのかあ、って感じだし。

あと、緩急の緩があまりなくて、ずっと急ばかりなのもちょっとしんどかった。
長い映画なんでもうちょっと肩の力抜いたシーンがあってもよかったんじゃないかと思う。
ピーター・ジャクソン、どのシーンも全力投球で、まあそれがこの人の持ち味ではあるんだけど。

座る席間違ったというのもある。
普段からわりと前の方に座るんだけど、ベストポジションが取られていて、前から2列目の席にしたらさすがに近すぎた。
動きが激しいんで、かなり観づらい。
長年映画観てきて、席間違ったと思うことはあんまりないんだけど、今回は失敗。

いや、面白くなかったわけじゃないんだ。
樽に乗って川下るシーンのマンガ的なアクションも素晴らしかったし、大蜘蛛のシーンもよかった。
巨竜スマウグも迫力あった。

とりあえず早く3作目観たい。
3作目観るまでには原作読んどきます。
昔に比べても記憶力がたっと落ちてるんで、間空くとけっこう忘れるんだよなあ。
ちと情けない。

ターナー展

神戸市立博物館の「ターナー展」に1日行ってきた。
ターナーの絵をまとめて見るのは初めて。

ターナーって言うとなんか印象派の元祖みたいに言われることがあるけど、実際にまとめて見ると印象派とは全然違うなあと思った。
19世紀前半イギリスのターナーと19世紀後半のフランスの美術運動である印象派を一緒にするのがそもそも無理があるわけで、印象派の画家たちがターナーに影響を受けたのは本当だとしても、絵に対する考えには大きな違いがあるように思った。
ターナーの絵の多くは風景画だけど、その描かれている風景はなんと言うか「ドラマティック」な風景だ。
ターナーは舞台の美術家や照明家がするように劇的な空間を演出する。
必要があればスモークも焚く。
そうして崇高で劇的な一瞬を作り出すのだ。
それは積み藁を日がな一日飽かず見つめた印象派の画家とは全然違う態度だと思う。

どっちかと言うと、ドイツロマン派のフリードリヒなんかに近いような気がしたら、ターナーとフリードリヒは1歳違いだった。
自然に対する関心の持ちようで言ったらずっとそっちに近い気がするけどな。

個人的には晩年の何が描いてあるのかよく分からない絵が好きです。

アラン・レネの短編映画

4月、5月の月極映画祭は今年3月1日に亡くなったアラン・レネ監督特集である。

僕のアラン・レネ体験は貧弱なもので、大学時代に「二十四時間の情事」と「去年マリエンバートで」を観たくらい。
ヒロシマをテーマにした「二十四時間の情事」はよく分からなかったが、「去年マリエンバートで」には強い印象を受けた。
モノクロで撮られた最も美しい映画の一本ではないかと思う。
後年デジタルリマスター版が上映されたのを観にいったが、その印象は変わらない。

2011年に新作「風にそよぐ草」(ひどい邦題だ)が京都シネマにかかった時は、まだ生きてたのか!と失礼にも思った。
さほど期待せずに観にいったのだが、すごく面白かった。
90歳近い年齢でこの映画を撮っていることにちょっと勇気づけられた。

アマゾンで比較的容易に入手できたアラン・レネの映画を年代順に観る。
今日観たのはアラン・レネとゴダールの初期短編を収めた「アラン・レネ/ジャン=リュック・ゴダール短編傑作選」。
アラン・レネのは5本入っている。
1940年代から50年代にかけての映画。

「ヴァン・ゴッホ」、「ゲルニカ」、「ゴーギャン」の3本はそれぞれ、ゴッホ、ピカソ、ゴーギャンの絵だけで構成された短編映画。
3本ともモノクロ映画である。
「ヴァン・ゴッホ」はゴッホの絵でゴッホの生涯を語った芸術と狂気についての映画。
「ゲルニカ」はピカソの絵と詩的なモノローグで戦争について描いた映画。
いずれも難解な映画ではない。
ゴッホやピカソの絵で作ったアニメーションのような作品。
アニメーションのように動くわけではないが、映画としてのリズムは豊かで引き込まれる。
「ゴーギャン」もゴーギャンの絵でゴーギャンの半生を映画いた映画だが、先の二本ほどの迫力は感じなかった。

「世界の全ての記憶」はフランスの国立図書館についてのドキュメンタリー映画。
ドキュメンタリーとして観ても面白いのだけど、人類の集合的な記憶の中をさまよう感じが「去年マリエンバートで」と似ていて興味深い。
モノクロの映像が美しい。

「スティレンの詩」は一転して原色の鮮やかなカラー映画。
スティレンて何のことかと思ったら、物質名のスチレンのことである。
重合してポリスチレンになる。
要するにプラスチックの一種である。
この映画はプラスチックの製造過程を詩的に描いたドキュメンタリー映画なのである。
なんのこっちゃと思われるかもしれないが、正にそう言う映画なのでそうとしか言いようがない。
人間も少し登場するが、主役はプラスチックとそれを製造する機械である。
原色のプラスチックの美しさと機械類の複雑な機能美を詩的に描いていて感動的。
こんな映画があること自体奇跡のような映画だ。
まさかプラスチックがこんな美しい映画になるとは!

ゴダールの方は「男の子の名前はみんなパトリックっていいうのね」など、チャーミングな3本。
こちらはみんな観たことのある映画だが、やっぱりいい。

次回はアウシュビッツを扱ったドキュメタリー映画、「夜と霧」。

カポーティ

フィリップ・シーモア・ホフマン追悼第4弾は「カポーティ」。
フィリップ・シーモア・ホフマンはこの映画でアカデミー主演男優賞を取っている。

トルーマン・カポーティの代表作「冷血」が生まれた背景を描いた作品。
実は「冷血」読んでない。
ついでに言うと「ティファニーで朝食を」も読んでない。
お恥ずかしい。

「冷血」は1959年に起こった実在の殺人事件に取材したドキュメンタリー小説で(読んでないけど)、この映画はそのカポーティと被告人二人のうち一人であるペリー・スミスの交流を中心に、カポーティの苦悩を描いている。
カポーティ役のフィリップ・シーモア・ホフマンは普段と声やしゃべり方まで変えている。
メイキングの中に本物のカポーティの映像があるんだけど、かなり似せていることが分かる。
ちなみに顔はそんなに似てない。

映像が端正で美しく、隅々まで神経が行き届いている。
演出は押さえ気味で、気品がある。
カポーティとペリー・スミスの関係は安っぽいヒューマニズム的なものではなく、カポーティの芸術家としての野心とカポーティを利用して助かろうとするスミスの思惑が絡んだ息詰るような関係である。
カポーティはけっこう平気でスミスに嘘をつく。
カポーティの打算や二面性も映画は隠さず描く。
しかし、不幸な少年時代を送ったもの同士の友情のようなものもそこに生まれてくる。
カポーティは物語の結末を描くためにスミスの死を願い、同時にスミスの死を恐れいてる。
そのことがカポーティを追いつめていく。

ペリー・スミス役のクリフトン・コリンズJr.が印象的な演技を見せている。
その他の脇役陣も重厚な演技を見せていて、物語を支えている。
「冷血」も読まなきゃなあ。


今回観た4本の映画で、フィリップ・シーモア・ホフマンはラジオのロック番組のDJ、演劇を研究する大学教授、舞台の演出家、作家を演じている。
適当に選んだのだが、たまたまどれも表現に関わる仕事をしている人物の役である。
それだけ表現者に愛され信頼された役者だったんだなあ、と思う。
46歳の死は早すぎた。
残された人間に出来るのは冥福を祈ることと作品を観続けることだけだ。
プロフィール

おがわさとし

Author:おがわさとし
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