六つの心

先月から観ているアラン・レネ追悼、7本目は2006年の「六つの心」。
ベタな邦題だし、ジャケットには「名匠アラン・レネによるハートウォーミングドラマ」とまで書いている。
勘弁してほしい。

これは孤独についての映画だ。
主人公は6人の男女だが、それぞれの人生でお互いに少しずつかかわり合いながら、決して本当に理解し合うことはない。
特別な人たちではないが、それぞれに悩みや弱さや秘密を抱えている。
舞台は雪のパリ。
この映画は最初から最後まで雪が降っている。
シーンとシーンの間には必ず雪の降るカットがオーヴァーラップされる。
日をまたいで、翌日にシーンが飛ぶところだけ雪のカットが入らない。
あとは、常に雪でシーンがつながれる。
静かに降り積む雪の儚さが人の心の孤独と弱さを象徴している。
しかしその孤独を見つめる視線は決して冷たくない。
雪は孤独を優しく包み込みもする。
繊細で理知的で時にユーモアをまぶした、孤独についてのスケッチだ。
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マーベル快進撃

先週「アメイジング・スパイダーマン2」を観て、今週は「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」を観た。
今年は2月に「マイティー・ソー/ダーク・ワールド」も観ているのでマーベル映画は3本目だが、全くはずれなしで、しかも全て前作からスケール・アップしている。
この安定感はただ事ではない。
以下、特にネタバレなし。

まず「アメージング・スパイダーマン2」だが、前作の青春路線を引き継ぎつつ、物語は格段にスケールアップしている。
実は冒頭の、プルトニウムをニトログリセリンかなにかみたいに扱っているシーンから始まって突っ込みどころはたくさんある。
アメコミの持つ馬鹿馬鹿しさを一番取り入れているのがスパイダーマン映画だと思う。
エレクトロの設定なんかも、現実的に考えれば全くあり得ないんだけど、そこは映像の力で強引に納得させられる。
ヒロインのグウェン・ステイシーや幼なじみハリー・オズボーンとのドラマも見応えがあり、アクションだけの映画にはなっていない。
一番あり得ないスパイダーマンの、例の放射線を浴びた蜘蛛にかまれて云々という設定には、今回リアリティーを持たせる工夫がしてあっておおっとなった。
今回3Dで観たのだが、スパーダーマンの空中戦は3Dで観る値打ちがある。

「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」は、前作「キャプテン・アメリカ:ザ・ファースト・アベンジャー」を劇場で観逃していたので、DVDで予習してから観た。
一作目が主に第二次世界大戦を舞台にした言わば「誕生編」で、間に「アベンジャーズ」があるけど、今回がキャプテン・アメリカの現代での活躍を本格的に描いた最初の映画になる。
こちらはポリティカル・フィクション、あるいはエスピオナージュ風のリアルな味付けで、よく練られた脚本だ。
「アベンジャーズ」には今ひとつ乗れなかったし、シールドの設定にもあまり魅力を感じなかったのだが、今回はその不満に見事に応えてくれた。
サミュエル・L・ジャクソンのフューリーも今回が一番いい。
もちろんアメコミ映画的な派手な見せ場もふんだんにある。
スカーレット・ヨハンソンのブラック・ウィドウも魅力的だし、今回はもう一人ヒーローが登場する。
ちなみにスミソニアン博物館の守衛役でスタン・リーがカメオ出演しているのでお見逃しなく。
これから観る人には前作「ザ・ファースト・アベンジャー」を先に観ておくことをお勧めする。
って言っても京都では今日が最終日だったんだけど。

マーベル映画は基本的に世界的な危機を描く大構造と主人公の人間関係を主軸にした小構造がバランスよくミックスされている。
「マイティー・ソー/ダーク・ワールド」は北欧神話をベースにした多重宇宙的世界の危機と家族、特に兄弟の話、「アメージング・スパイダーマン2」はテクノロジーのもたらす脅威と恋愛の話、「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」は巨大な政治的陰謀と友情の話。
それぞれ少しずつ角度を変えて攻めてきているのが分かる。
そこにさらに各キャラクターの持つ個別のドラマが複雑に絡んでいて、脚本の質が高い。
監督はそれぞれ違って並行して作られている映画がこれだけの高い質を維持しているのは、監督の作家性に委ねるのではなく、チームワークとプロデューサーのリーダーシップがものを言っているのだろう。
そのプロデュースに毎回名前を連ねているのが、原作者スタン・リーだが、スタン・リーは1922年生まれ、アラン・レネと同じ年の生まれである。
ちなみに水木しげる先生とも同い年だ。
この年に生まれた人は長生きの人が多いのかなあ。

それにしてもマーベル映画はそれぞれ少しずつ設定を引っ掛けて、一作観ると他も観ざるをえなくなるように仕向けられていて、商売としても上手いなあ、といつも感心する。
しかもエンディングに謎を仕込んでおいて、続きも観ざるをえない。
御年91歳のスタン・リーの手のひらで踊らされているのだと思うとちょっと複雑だけど、楽しいので文句はない。
当分マーベル映画から目を離せそうにないなあ。

巴里の恋愛協奏曲

アラン・レネ追悼の方は初期の短編から始まって1966年の「戦争は終った」まで代表作を年代順に観てきたのだが、ここで時代が一気に飛んで、2003年の「巴里の恋愛協奏曲(コンチェルト)」を観る。
中期の作品がDVD化されていなかったり、アマゾンのユーズドでとんでもない値段がついていたりで、入手出来なかったのだ。

2003年といえば、1922年生まれのアラン・レネは80歳を超えている。
初期作品で戦争の問題と意識や記憶の問題を濃密な映像で語っていたレネが恋愛ミュージカル。
その間に何があったんだ、レネ。
この映画は1920年代のオペレッタを映画化したもので、1920年代の上流階級の恋愛劇を実に楽しい映画に仕立てている。
これっていい年の取り方だよね。
年取ってから暗い映画撮るようになったらなんか辛いけど、80歳過ぎてこの映画撮るというのはなんか観ているものまで幸せな気分になるね。

もっともこの映画、豪華な邸宅内を舞台に複数の男女のゲーム的な恋愛劇が進むという構成は「去年マリエンバートで」と似ていなくもない。
劇中劇が出てくるのも似ているし、そこはアラン・レネの映画である。

美術が素晴らしい。
舞台になるのは主演のサビーヌ・アセマ演じるジルベルトの邸宅と中国趣味のアパルトマンの二カ所だが、ともに緑と赤の二色を基調として美しい。
もちろん20年代ファッションも見所の一つ。

話は他愛ないながら、スリリング。
ジルベルトは夫と幸せな暮らしをしながら、若い芸術家との恋愛を楽しんでいる。
そこに夫の取引先のアメリカン人が来るのだが、それが実は離婚した前夫。
夫は、結婚した時に妻が処女だったと信じているので、ばれたら大変。
そこにジルベルトの姉や芸術家の若い男に恋する娘(「アメリ」のアドレイ・トトゥ)もからむ。
物語が一番混乱するジルベルト邸の最後のパートの魔術的映像はさすがのレネ節。

あと、若い芸術家がダダイズムとキュビズムを越えるキュキュイズムを唱えているのも楽しい。
アラン・レネ、この時代にもう生まれてたんだよな。
すげえな。

最後はハッピー・エンドで気持ちよく終る。
アパルトマンの管理人のおばあちゃんがいい味。
こういうレネもいいなあ。

鈴木則文監督追悼

久々のポルノナイトは、今月15日に亡くなった鈴木則文監督を偲んで、鈴木則文監督の東映ポルノ2本+αを観る。

まずは+αの一本の「ゾンビ・ブライド」。
人気AV女優のみづなれいさんが主演したなんとも奇妙なゾンビ映画。
不倫相手に殺されたOL(これがみづなさん)がゾンビと化して、先輩ゾンビでゾンビ相手にバーをやっている女性と淡々と日常生活を送るという、日常系ゾンビ映画。
ホラーと言うほど怖くないし、コメディと言うほどおかしくないし、ポルノと言うほどエロくない。
どちらかというとしみじみした、女性のささやかな自立を描いた作品。
先輩ゾンビが自転車に乗れないというので、原っぱで自転車の練習をするところとか実にほのぼのしている。
不倫相手に対しても派手に復讐するのかと思ったら、案外優しい。
みづなさんはこの映画の中で29才という設定になっている。
これはこの映画が公開された2013年のみづなさんの公式年齢より上なのだが、今年の誕生日にみづなさんが、実は年齢サバ読んでいて今年30歳になる、とカミングアウトしたので、結局公開時の実年齢と合っていたことになる。
作っている人は知っていたのかどうなのか。
みづなさんはゾンビメイクでも奇麗で、ゾンビ演技をしていても可愛い。
ちなみに「ブライド」と題しているが、エンディングに花嫁姿の写真が使われる以外、花嫁シーンはない。

さて、鈴木則文監督追悼二本立ての一本目は「温泉みみず芸者」。
1971年の東映映画。
鈴木監督が初めて手がけるポルノ路線の作品で、東映ポルノの二枚看板、池玲子と杉本美樹の主演デビュー作でもある。
温泉芸者シリーズとしては4本目。
松井康子の多胡初栄、池玲子の多胡圭子、杉本美樹の多胡幸子の母娘は全員タコツボ名器の持ち主。
ご先祖様が蛸壺を発明した人で、お墓も蛸壺型なのだ。
くだらない。
実にくだらない。
そのくだらなさが大変いい感じだ。
池玲子の多胡圭子が主演で、彼女が母親の借金を返すためにトルコ風呂(死語)や温泉場を渡り歩くのだが、お母さん役の松井康子がまた素晴らしい。
それに妹の杉本美樹が加わって、温泉場に現れた竿師三人組とセックス三番勝負をするクライマックスはほとんどシュールなくらいの馬鹿馬鹿しさ。
直接的な性描写が出来ない分、波や祭の映像をインサートして隠喩的にセックスを表現しているのが今観ると実に馬鹿馬鹿しくておかしい。
あと、前半で杉本美樹が母親の情事をのぞくために、先っぽをくわえて濡らしたバナナを障子に押し込んで穴を開けるシーンが秀逸だった。
池玲子の相手役が小池朝雄の板前でこれがまた渋い。
山城新伍も安定のおかしさ。
川谷拓三がちょい役だけどいい味。

二本目は「女番長ブルース/牝蜂の挑戦」。
女番長と書いてスケバンと読む。
1972年のシリーズ第2作。
舞台は京都で、新京極とか京都駅とか国際会館とか知っているところがたくさん出てきて楽しい。
昔懐かしい八千代館も映っている。
そういうポルノ映画専門の封切館があったんですよ。
一度入ってみたいと思いながら結局一度も入らないうちにつぶれてしまった。
さらに万博公園まで出てくる。
万博の翌年という設定。
池玲子が主演で、宮内"仮面ライダーV3"洋がレーサーを目指す元愚連隊役をかっこよく演じている。
物語はけっこうシリアスで、池玲子率いるパール団と対立する黒百合会、さらに小池朝雄が組長をしている黒地組の三つ巴の抗争劇。
暴力団黒地組がもちろん一枚も二枚も上手で、黒百合会は解散させられたあげくコールガールに仕立てられてしまう。
大人の権力を象徴する黒地組に不良娘たちがいかに一矢報いるか、というのが物語全体の大きな構図になっている。
予告編では「ポルノ・アクション巨編」と銘打っているし、緊縛ろうそく責めシーンなんてのもあるけどポルノ色は薄め。
荒々しい肌触りの青春劇である。

鈴木則文監督の映画をたくさん観ているわけではないが、この猥雑でエネルギッシュで反骨精神旺盛なイメージが僕の鈴木監督のイメージだ。
これからも鈴木監督の作品をたくさん観て感想書く予定。
鈴木監督、お疲れ様でした。
あちらで小池朝雄さんや川谷拓三さんと楽しく語らってください。

よい子のまん個展、あるいは何故性器にモザイクをかけてはいけないか。(その2)

いかに「薄消し」であろうと、そこにモザイクがあれば、その部分は「わいせつなもの」というレッテルが常に張られた状態にある。
マンガの修正も同様だ。
どれほど形骸化した何も隠していないような修正でも、それがあるということは、この部分は「わいせつ」です、といちいち註を付けているようなものなのである。

性器は自然な身体の一部である。
それがエロティックな文脈で語られる場合であっても、性器だけがエロティックなものであるわけではなく、他の身体の部分と組み合わさって性的な意味を持つのである。
まして、特にエロティックな文脈ではない場合でさえ修正が必要である理由は、刑法175条を前提としても皆無であることは明白である。

日活ロマンポルノの時代にはまだ性器を隠す文化というものが支配的であった。
女優も男優も前張りというものをつけて演技した。
撮影現場ですら性器は隠されていたのである。
(今でもピンク映画はそうであるらしい。)
しかし、AVや成年マンガにはそういう隠す文化はもはや存在しない。
修正を加えられた状態でも、性器は結合状態も含めて明示されている。
その性器にいちいち「これはわいせつなものです」というレッテルを貼ることが現在義務づけられているのである。
そのことがそれを享受する人間の身体観を損なうことは容易に想像されよう。
性器だけが「わいせつ」だとする身体観は明らかに歪んだ身体観である。

そもそも大人が大人の性器を見ることに何の問題があるというのだろうか。
あるいは、よしんば未成年が見ることがあるにしてもゾーニングによって未成年の目から遠ざけるべきなのは「性器の正確な形状」ではないだろう。

もっともモザイクなり修正なりがあることでわいせつ感が増す、ということを肯定的に捉える人がいることも事実である。
隠されているからこそエロい、という立場である。
AVや成年マンガの視聴者、読者が必ずしも修正に否定的ではない一因はそこにあるだろう。
修正された性器に「わいせつ」を感じるというのは一種の倒錯である。
倒錯は人間の性的多様性を確保する上で必ずしも否定すべきものではない。
問題は、その倒錯を国家によって強いられている、という現状なのだ。
なにが「わいせつ」かを決めるのはあなたである。
あなたが足の裏が「わいせつ」だと思うなら足の裏が「わいせつ」なのであり、鎖骨が「わいせつ」だと思うなら鎖骨が「わいせつ」なのである。
それは人に決めてもらうものではない。
自分の「わいせつ」くらい自分で決めるべきなのだ。
そして、性器は自然な身体の一部という本来あるべき姿に戻してあげよう。

長々と書いたのは、僕が常日頃思っていることである。
しかしろくでなし子さんが作品を通して訴えているのもまさにそういうことだと思うのである。
そこに僕は共感するし、それを端的に訴えている彼女の作品は、見るものの認識を大らかな笑いとともに改めさせる力を持っている点で優れたアートたり得ていると思うのだ。

よい子の科学まん個展、あるいは何故性器にもモザイクをかけてはいけないか(その1)

東京に日帰りで行ってきた一番の理由は新宿眼科画廊で開催されているろくでなし子さんの「まんことあそぼう!よいこの科学まん個展」を見るためであった。
ろくでなし子さんはマンガ家でアーティストなのだが、自分の性器を型取りしてそれにデコレーションを施したデコまんで注目され、さらに3Dプリンターで拡大コピーしたまんボートまで作ってしまった人である。

今、多くの表現物では性器に修正をかけることが義務づけられている。
AVにはモザイクがかかり、成年コミックには黒線やホワイトの修正が施される。
これは刑法175条という法律が規定するわいせつ物頒布等の罪というものに抵触するから、ということになっている。
わいせつは「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反する」と定義されているのだが、それだと曖昧でどこからどこまでを取り締まればいいのか分からない、そこで簡易に判別するのに「性器が写っている、または描写されている」という基準がまかり通っているわけである。

ではそのことによって侵害されているのは何だろうか。
AVのモザイクは実際には性器を隠してはいない。
性器の部分だけ画素数が極端に粗くなっているだけで、形も色もある程度分かる。
昔のAVには疑似挿入というのがあったのだが、今の普通のAVではそれはありえない。
挿入されているかどうかくらいはモザイク越しでも十分判別出来るからだ。
マンガの修正に至ってはどこが隠れているのかよく分からない。
では、この程度の修正なら「表現の自由の侵害」には当たらないであろうか。

「性器を表現する自由」ということなら、大して侵害されてはいない、と言えるかもしれない。
しかし、この修正によって根本的に損なわれているものがある。
「性器を自然な身体の一部として表現する自由」である。

いい日、お遊戯。

「いい日、お遊戯。」という舞台を観た。
元恵比寿マスカッツの西野翔さんが主演の舞台があると言うので、予備知識なしで観にいったのである。
脚本・演出は石山英憲という人で、いい日シリーズの第5弾だそうである。

舞台は幼稚園で、そこに新しく入園してきた子どものお母さんが西野翔さん。
チラシを見たイメージで、西野翔さんは幼稚園の先生だと思い込んでいたのでちょっとびっくりした。
そうか、西野翔さんがお母さん役かあ。
年齢的にはおかしくはないけどそういうイメージなかったなあ。
西野翔さん演じる仁科さんは、訳ありのシングルマザーで、その幼稚園の卒園生でもある。
竹匠さん演じる園長先生はかつての仁科さんの先生でもある。

その幼稚園ではニコニコ発表会という園児の親たちによる発表会がある。
そのニコニコ発表会でピーターパンの芝居をやろうということになるのだが、一癖も二癖もある親たちはなかなかまとまらない。

基本的に群像劇で、親同士、あるいは親と園の先生たちとのぶつかり合いがこの舞台の肝。
全くテーマは違うが「十二人の怒れる男」をちょっと連想した。
仕事にしか関心がなく子育ては妻に任せっきりにしている父親、いつもアルコールの匂いをさせているスナックを経営している母親、演劇部の顧問をしている高校の教員と元教え子だったその妻など、キャラクターは分かりやすく色付けされている。
ちなみに子どもは出てこない。

最初はちょっと乗れなかったのだけど、ピーターパンの芝居の練習を始める辺りから面白くなった。
演劇部の顧問の小坂さん(滝上裕二)がキレキレのキャラクターで、すごくおかしい。
仕事人間の高沢さん(伊藤武雄)も憎たらしくもリアリティーがある。
西野翔さんも芸達者な役者さんの中でがんばっていたが、西野さん演じる仁科さんはどちらかというと狂言回し的なキャラクターで、実は物語の中で一番大きく変化するのはこの仕事人間の高沢さんとその従順な奥さんである。

次から次へといろんな問題が起きて、親たちも先生たちも悩みながら成長していく。
それを笑いを基調に快適なテンポで描いて楽しめた。
他のお母さんとの浮気がばれた高沢さんとその奥さんの関係をみんなで一芝居打って解決していくクライマックスはさすがにちょっと無理があると思ったけど、その後に用意されている園長と副園長(寿崎千尋)の大人の恋の行方がむしろぐっと来た。
寿崎千尋さんの演技は幅が広くて深みがあり、個性的な役者さん達の中でも目を引いた。

全く予備知識なしで観にいったけど十分満足しました。
みなさま、おつかれさま。

戦争は終った

アラン・レネ追悼第5弾は1965年の「戦争は終った」。
イブ・モンタン主演の、今回はリアリズムの映画。
とは言え、随所にアラン・レネらしい仕掛けがある。
映像は、フランコ政権下のスペイン、フランスに亡命しながら地下活動をする男の三日間を追う。
この男を演じているのがイヴ・モンタン。

スペイン内線とその後のフランコ政権の抑圧がこの情熱の国に落とした影については、僕の大好きなヴィクトル・エリセの映画でも描かれるのだが、実は詳しく知らなくて勉強しよう勉強しようと思いつつ今日まで来ている。
とりあえず岩波新書の「スペイン現代史」が部屋のどこかにあるはずなのだが、見つからない。
探さねば。

当時の非合法組織の雰囲気等も具体的に描かれ、それはそれで興味深いのだが、アラン・レネらしく革命を目指す男と二人の女との関係が興味深く描かれている。
一人は自身も運動に関わっている少女で、この少女を演じているのはジュヌヴィエーヴ・ビュジョルド。
書きにくいし覚えにくい名前だけど、このジュヌヴィエーヴ・ビュジョルドが素晴らしく魅力的。
イヴ・モンタンはいい年なのだけどもてるので、会ってすぐこの少女といい関係になる。
このベッドシーンがアラン・レネらしい斬新でスタイリッシュな映像でかっこいい。
ジュヌヴィエーヴ・ビュジョルドはこの映画でシュザンヌ・ビアンケッティ賞という新人女優に与えられる賞を受賞している。
もう一人は男の妻で、演じているのはベルイマンの映画に多く出ているスウェーデン人の女優イングリッド・チューリン。
フランスで出版の仕事を仲間とやりながら、なかなか家に帰ってこない夫を待っている。
妻とのベッドシーンはまた違うスタイルの映像。
こちらはこちらで魅力がある。
まあどちらが好きかと言えばジュヌヴィエーヴ・ビュジョルドですよ。
そりゃ。

戦争の問題と男と女の問題を絡めて描くのは「二十四時間の情事」と同じで、そこに生まれる濃密な空間がアラン・レネ映画の一つの魅力だろう。
スペイン現代史を少し勉強してからもう一度観たい。
そのためにもまず「スペイン現代史」を掘り起こさなければ…

去年マリエンバートで

アラン・レネ特集第4弾は1961年の代表作「去年マリエンバートで」。
「去年マリエンバートで」を観るのは、これで三回目。
何度観てもよく分からないながら引き込まれる映画だ。
大学時代に観た時は「二十四時間の情事」の方が分かりにくかった印象があるのだけど、どう考えてもこちらの方が難解である。
むしろこれくらい難解だとストーリーを追うことを諦めて映像だけに集中出来たのだと思う。
映像の魔術的なことは今観ても新鮮だ。
絵画的な美しさを追求する監督は固定カメラを好む傾向があると思うのだが、この映画はほとんどのシーンが移動カメラである。
それでいて計算し尽くされた絵画的な美しさがあって、一分の隙もない。

巨大なホテルに集う人々の中の一人の女と二人の男を中心にあるようなないような物語は展開する。
男は女に、去年お会いしましたね、と話しかけ、女は記憶にない、と答える。
もう一人の男はカードを使ってゲームをするのだが、それに勝ち続ける。
女は男に言い寄られる中でだんだん自分の記憶に自信が持てなくなる。
カードをする男は二人の関係を離れたところから見ている。

この映画は、元々黒澤明の「羅生門」にインスピレーションを得て作られたものだそうだ。
なるほど、「羅生門」も一人の女と二人の男の話であり、何より「記憶」についての映画だ。
過去の事実が見るものの主観で変貌していく「羅生門」のテーマを脚本のアラン・ロブ=グリエと監督のアラン・レネがさらに追求した映画だというのは理解出来る。
とは言えそれが理解出来れば分かると言うような映画ではない。

僕はタイトル通りの「去年マリエンバートでお会いしましたね」というセリフがあったように記憶していたのだが、今回観たらそんなセリフはなかった。
しかし「去年マリエンバートで」という映画は、客観的に外側に実在しているフィルムやDVDではなく、記憶の中にこそあるのかもしれない。
記憶の中で変貌していく「去年マリエンバートで」は常に新しい映画としてあるのではないか。
そんな変なことを考えさせられてしまう映画なのだ、この映画は。
多分、僕はこの映画を死ぬまでにあと何回かは観ると思うのだけど、観るたびに違う映画としてこの映画は立ち上がってくる気がする。
あるいは全ての映画はそうなのかもしれないが、そのことを自覚させる力をこの映画は持っていると思うのだ。

東宝特撮ナイト第6夜(「ガス人間第一号」と「モスラ」)

東宝特撮映画を年代順に観ていく東宝特撮ナイト、今週は1960年の「ガス人間第一号」と1961年の「モスラ」。
だいぶ生まれた時代に近づいてきた。

「ガス人間第一号」は「美女と液体人間」「電送人間」に続く変身人間シリーズの第3弾で、最高傑作。
よく出来た映画と言うのはキャスティングがぴたりと決まっているものだが、この映画のキャスティングは素晴らしい。
ガス人間の水野役は「透明人間」、「マタンゴ」も含め、変身人間シリーズ皆勤賞の土屋嘉男。
ガス人間の不敵な不気味さと哀れさを演じて鬼気迫る。
相手役の零落した踊りの家元、藤千代を演じている八千草薫も人間離れして美しい。
この影のある二人の悲恋と、三橋達也、佐多契子の現代的な刑事と女記者の明るさが好対照をなしている。
脇役陣も爺や役の左卜全、マッドサイエンティスト役の村上冬樹、社会部デスクの松村達雄、殉職する刑事役の小杉義男らが印象に残る演技を見せている。
小杉義男っていい顔してるよなあ。
鬼瓦のような顔っていうのはこういうのを言うんだろうな。
特撮部分は多くはないが、物語に花を添えている。
マッドサイエンティストの部屋の漫画的な機械類も楽しい。

木村武の脚本もよく練れていて、本多猪四郎の演出も冴え渡っている。
怪奇色と探偵小説色が持ち味のシリーズだが、それが十分発揮された上、日本舞踊の古典的な世界と男女の堕ちていく恋愛が組み込まれ、何度観ても味わい深い映画になっている。
大人の映画だと思う。

あと、この映画の音楽は伊福部昭でも佐藤勝でもなく、「ウルトラQ」「ウルトラマン」の宮内國郎で、これがこの映画のサスペンスを高めている。
この音楽が後に「ウルトラQ」などで流用されたそうで、なるほど聞き覚えのある曲だ。

翌1961年の「モスラ」も本多猪四郎監督。
その前の「大怪獣バラン」が1958年なので、本格的な怪獣ものとしては3年ぶりになる。

「モスラ」は不思議な映画だ。
いろいろと矛盾するところは多い。
インファント島の密林が原水爆実験の後もそのまま残っている理由も十分には説明されていないし、モスラの成長も早すぎる。
海を渡っていたモスラの幼虫が突然ダムに姿を現すのも無理がある。
しかし、そういう欠点があまり気にならない大らかな幻想性がこの映画にはあり、東宝怪獣映画の中でもファンタジー色が特に強い一作だ。
語り草になっている、折れた東京タワーに繭を作るシーンはシュールレアリスムの絵のような美しさだ。
小美人の愛らしさは言うまでもない。
密林幻想、小人幻想、昆虫幻想、音楽幻想などが複雑に絡み合って、全体が一枚の絵のようである。
フランキー堺や香川京子を配して、どこかコミカルでのんびりした感じがあるのもこの作品の魅力。

中村真一郎、福永武彦、堀田善衛という純文学の三巨匠が執筆した原作小説は探せばどこかにあるはずなんだけど、すぐには出てこない。

ところで、冒頭インファント島に遭難者を助けにいくのは佐原健二で、助けられた船乗りの一人が加藤春哉。
調べてみるとこの二人は「地球防衛軍」「美女と液体人間」でも共演している。
佐原健二が万城目、加藤春哉が相馬記者を演じた「ウルトラQ」は1966年、5年後のことである。
一平役の西條康彦は「電送人間」に出てたらしいんだけど気がつかなかったなあ。
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