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エイリアン4

エイリアン映画祭第4回は1997年の「エイリアン4」。
原題は「ARIEN RESURRECTION」。
邦題も「エイリアン/復活」でもよかったんじゃないかなあ。
監督はジャン=ピエール・ジュネ。
この時にすでにマルク・キャロと共同監督した「デリカテッセン」「ロスト・チルドレン」で定評のあった監督だが、長編の単独監督作品としては初だし、アメリカでの制作も初。
世界的にヒットした「アメリ」はこの後の2001年作品なので、新しい才能に監督を託すこのシリーズのコンセプトは受け継がれていると言っていい。
僕はなぜか公開時にこの映画を観逃していて、今回が所見。
以下今さらだけどネタバレごめん。(なるべくネタバレ避けてますが。)

前作の「エイリアン3」で主人公のリプリーさんが死んでしまって、どうするのかと思ったら、まあそこは伝家の宝刀です。
クローンといえば何でも通ると思うなよ、とも思うが、そこは目をつむるのがお約束。
しかしそれなりに工夫もある。
リプリーさんの遺伝子にエイリアンの遺伝子が組み込まれていて、今度はリプリーさんがエイリアンの母親になる。
これはなかなかエグい設定だ。
この映画のリプリーさんはこの世の果てを見てきた人のようで何か聖性を帯びている。
シガニー・ウィーバーの演技も貫禄十分で、4作を通して「エレン・リプリー」という20世紀SF映画最大のヒロイン像を打ち立てたと言っていい。
対して、この映画もう一人のヒロイン、ウィノナ・ライダーが素晴らしく可憐。
ウィノナ、久しぶりに観たけど、この頃のウィノナは本当に素晴らしいな。

そんな新旧二人のヒロインを中心に物語は進むのだが、脇役陣も個性的で魅力的。
ジャン=ピエール・ジュネ監督の常連、ドミニク・ピノンとロン・パールマンの凸凹コンビもいい味だが、個人的にはブラッド・ドゥーリフですよ。
あぶない科学者役で異彩を放っています。
ブラッド・ドゥーリフ(昔はブラッド・ダリフと表記されていたと思うが)、いい役者だと思うんだけどあまり役に恵まれていない。
「カッコーの巣の上で」で脚光を浴びたあと、いろんな映画に出てるんだけど、たいていちょい役。
「ミシシッピー・バーニング」のレイシストの保安官とか「デューン/砂の惑星」のコンピューター人間とか、最近(でもないか?)だと「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」の蛇の舌とか、印象に残る役はいろいろあるのだが、未だに代表作が「チャイルド・プレイ」のチャッキー(の声)とか書かれてしまうのはどうなの。
この映画でもすごくいい味出してるんだけどいかんせん出番が少ない。
元気な間に、これぞブラッド・ドゥーリフ代表作、っていうのに出てほしいなあ。

元々続編を作れる仕様になっていなかったにも関わらず、この映画、1作目から3作目までの流れを基本的に尊重した上で、きちんと物語を畳んでいる。
その上でジュネらしいブラックなユーモアも利かせている。
よく見ればいろいろ突っ込みどころはあるけど、個人的にはあんまり気にならなかった。

エイリアンシリーズは深層心理学的に解説しやすい映画で、この映画もユング心理学のグレート・マザーなんてのを持ち出すとわりと綺麗に説明できると思うけど、しませんよ。
でも、母性の光と闇を描いた映画であることは確か。
ちなみに今回僕が観たのは「劇場公開版」。
同じDVDに「完全版」というのも入っているのだが、ジュネ自身が、自分にとってのディレクターズ・カット版は劇場公開版だと冒頭の挨拶で言ってたので、そっちで観た。
それで正解だったと思う。
ラストが違うというので、あとで「完全版」のラストだけ観てみたのだが、こっちだとラストの感動はないな。
最初に観るなら劇場公開版をおすすめします。

4作続けて観るとキャメロンの2作目だけ浮いてる感があるけど、それぞれに個性的な監督が個性的な映画を作っていてどれも見どころがある。
シリーズものとしては稀有な例だと思う。
元々シリーズ化が予定されていなかった作品で、継ぎ足し継ぎ足ししてなんとか着地点まで持っていけたシリーズもの、というと昔の「猿の惑星」5部作とこれくらいじゃないだろうか。
堪能しました。

来月の月極映画祭は予告したとおり(誰も覚えてないと思うが)、ダコタ・ファニング祭です。
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エイリアン3

毎月勝手にテーマを決めてDVDを観る月極映画祭、7月はエイリアン祭。
3回目はデイヴィッド・フィンチャー監督による1992年公開の「エイリアン3」。
原題は「ALIEN3」だが、「3」が「N」の右肩に小さく乗っていて、「エイリアンの3乗」みたいな感じになっている。

デイヴィッド・フィンチャーはこの映画がデビュー作。
毎回新しい才能に監督を任せるエイリアン・シリーズだが、デイヴィッド・フィンチャーに決まるまで、相当紆余曲折があったようである。
最初ウィリアム・ギブソンが脚本を書くという話になっていて、SFファンの間では色めき立ったものだったが、結局ウィリアム・ギブソンは降りている。
その辺のごたごたについてはウィキペディアでも見てもらうことにして、「エイリアン3」を改めて観る。
ちなみに今回観たのは後に編集され直したディレクターズ・カット版。
ネタバレしてるので、未見の人はご注意を。

劇場公開時にこの映画の冒頭シーンを見てショックを受けた。
2作目で生き残ったニュートやヒックスがいきなり事故で死んでしまうのである。
「エイリアン2」の全否定みたいなもので、何をするのか、と絶句した。
今見てもひどいよね、これは。
その後にニュートを解剖するシーンも出てきて容赦ない。

雰囲気そのものは1作目のリドリー・スコット版に近いけど、デイヴィッド・フィンチャーの後の作品を観てからだと、デイヴィッド・フィンチャーらしさはこの映画でも十分出ている。
この映画の宗教的でありながら背徳的な感じは「セブン」を先取りしていると言える。
原題が「エイリアンの3乗」みたいな表記になっているのは「3」という数字に特別な意味を持たせたかったからではないだろうか。
「3」といえば、ヨゼフ、マリア、幼子イエスの聖家族の数でもある。
これをエイリアン、リプリー、エイリアンの子どもに当てはめてみると、この映画は聖家族の陰画のような映画と言えなくもない。
そう思って観ると。やはり「セブン」のデイヴィッド・フィンチャー監督のデビュー作としてまことにふさわしい映画に思える。
どこまでもペシミスティックなようで、何か聖性のようなものが感じられるラストは感動的でさえある。

デビュー作には、成功作であれ失敗作であれ、その作家の作家性というのが色濃く出るものなのである。
興行的にも批評的にも失敗だったとされるこの映画だけど、デイヴィッド・フィンチャーという監督を世に出した功績は大きい。
僕は個人的にはこの映画が嫌いではない。
男だけの収容所惑星というロケーションとか、リプリーさんの丸刈りとか、日本語がところどころ使われているところとか見るべきところは多い。
味わい深い映画だと思う。

次回は未見の「エイリアン4」

エイリアン2

今月の月極映画祭はエイリアン祭。
ということで今日はジェームズ・キャメロン監督による第2作「エイリアン2」(1986年)を久しぶりに観た。
ディレクターズ・カット版で、劇場公開版よりだいぶ長い。

監督が変わっての第2作で、路線を変えて成功した、という映画はあまりない。
「エイリアン2」はその珍しい例。
1作目の美しくゴシック調のホラー映画から、2作目はアクション映画に。
ジェームズ・キャメロン監督はローバジェットの「ターミネーター」(1984年)で注目されたけど、こういう大作を撮るのは初めて。
エイリアンシリーズは監督の起用にこだわりがあってそこが見どころの一つ。

原題はシンプルに「ALIENS」で、前回の単数形から複数形に変わっているだけ。
タイトル通りエイリアンが集団で出てくる。
「今度は戦争だ」というキャッチコピーが懐かしい。
で、改めて観ると、いろいろアイディアを盛り込んでいるが、かなり雑な映画である。
お金はかかっているけど、良くも悪くもB級テイストにあふれた映画。
パワードスーツというものを映画の中で登場させたのはこの映画が多分最初だし、マッチョな女性海兵隊員の登場も当時は新鮮だった。
しかし、ぞろぞろと出てくるエイリアンは簡単に銃で殺されてしまって、前作の圧倒的な恐怖感はかけらもない。
海兵隊もあまりに無策で、コピーに反して戦争ものとしての面白みは実はあまりない。
正直中盤はかなりダレる。

面白くなるのはリプリーと女王エイリアンの母親対決になってからで、そこら辺の盛り上げ方はさすが。
この映画は母性というのがかなり重要なファクターになっているのだけど、キャメロンは「強い母親」というイメージが好きなんだろうなあ。
「ターミネーター2」もそうだしな。

この映画ではランス・ヘンリクセン演じるビショップというアンドロイドもキャメロンらしいキャラクター。
1作目の「エイリアン」でイアン・ホルムが演じたアッシュというアンドロイドとビショップの関係は「ターミネーター」の1作目と2作目のT-800の関係とパラレル。

キャメロンはこの次の「アビス」(1989年)から本格的にCGを使うんだけど、この映画はアナログの特撮で作られている。
ミニチュアワークなんかは今観るとわりとちゃちい。
パワードスーツはけっこうよく出来ていて、パワードスーツ来たリプリーと女王エイリアンが戦うのは「パシフィック・リム」を先取りしている感はある。
当時も、ロボットアニメを連想して日本のアニメの影響がこんなところに!と感激したものだった。
ちなみに「アビス」は今観たら多分退屈な映画だと思うけど、当時はびっくりした。
「アビス」と「ターミネーター2」のCGは当時は魔法のように見えたんだけど、その感じは今の若い人には分からんだろうなあ。

キャリー・ヘン演じるニュートという少女もこの映画のキーパーソンで、実際彼女はすごく魅力的なんだけど、3作目すでに観てその後を知っているのでなんだか複雑だ。
そんなわけで来週はデイヴィッド・フィンチャー監督の「エイリアン3」。

エイリアン

7月の月極映画祭はH.R.ギーガー追悼と「ホドロフスキーのDUNE」公開記念を兼ねてエイリアン祭。
エイリアン4部作を毎週一本ずつ観ます。
1作目から3作目までは劇場で観ていて、4作目のみ未見。
1作目は何回か観てるけど、2作目、3作めは劇場公開以来観ていない。

で、今日は1作目の「エイリアン」を久しぶりに観た。
リドリー・スコット監督の出世作。
1979年の映画だから今から35年(!)も前の映画だが、今観ても全然古びてない。
最初の「ARIEN」という文字が少しずつ出てくるシーンからかっこいい。
ヒロイン像も新鮮。
ストーリーを知っていて観てもちゃんと怖い。
強いて言うならコンピューターが「マザー」と呼ばれてるのが古風。

今回はディレクターズカット版で観た。
このヴァージョンを観るのは初めてかも。
ダラスとブレットが襲われたあとどうなったかが描かれているのだけど、これは好みが分かれそう。
僕はなくてもいいと思った。
緊迫感のあるシーンに挟まれているのだけど、このシーンのために流れが悪くなっている気がする。

この映画はなんといっても美術が素晴らしい。
特に異星人の宇宙船のシーンが素晴らしくて、今観ても感動する。
H.R.ギーガーの美意識とリドリー・スコットの美意識が共鳴して、SF映画史上もっとも美しいシーンの一つになっていると言っていい。

それにしても、ラストのナルキッソス号のシーンで、エイリアンはあの狭い隙間に挟まって何をしてたのだろうか。
お昼寝をしていたのか。
なんかあの狭いところにすっぽり収まっているエイリアンはちょっとかわいいな。
あと、リプリーさんのローライズのパンツは今観てもエロいですね。
ってやっぱりそこか。

ちなみにリドリー・スコット監督自身による「エイリアン」の前日譚「プロメテウス」は、賛否あるようだけど、個人的には好き。
続編も楽しみ。

来週は監督がジェームズ・キャメロンに変わって、雰囲気もガラリと変わった「エイリアン2」。
今度は戦争だ。

ホドロフスキーのDUNE

アレハンドロ・ホドロフスキー監督の「DUNE」。
これは僕らの世代のSF映画好きにとって、まさに幻の映画だ。
1970年代に企画され、フランク・ハーバートの原作に、メビウス、H.R.ギーガー、クリス・フォス、ダン・オバノンら錚々たるメンバーが参加し、キャストにはオーソン・ウェルズ、サルバドール・ダリ、ミック・ジャガーらジャンルを超えた大物が参加する。
音楽はピンク・フロイドとマグマ。
そして監督は「エル・トポ」、「ホーリー・マウンテン」の鬼才アレハンドロ・ホドロフスキーだ。
まさに世紀の大プロジェクトだった。
しかし映画はその巨大な規模ゆえに、予算が膨らみ、さらに前衛的な作風のホドロフスキーの監督作ということで敬遠され、結局頓挫する。
「DUNE」はその後デイヴィッド・リンチ監督によって「デューン/砂の惑星」として映画化されるが、決して出来のいい映画ではなかった。
ホドロフスキーの「DUNE」のために集まっていたスタッフは、後にリドリー・スコット監督の「エイリアン」を生む。

この映画はその幻の映画について、関係者たちのインタビューを中心に綴ったドキュメンタリーだ。
なんといってもホドロフスキーのエネルギッシュな語りに圧倒される。
作品から想像されるほど「変な人」ではない。
しかし、自分の夢のためにまっしぐらに突き進む力強さはさすがである。
メビウスとダン・オバノンはすでに亡くなっていて残念ながら登場しないが、クリス・フォスとつい先日亡くなったH.R.ギーガーは登場していてその証言と映像はかなり貴重だ。
しゃべっているギーガーを初めて見た。
意外に(?)素朴な感じの人だ。
クリス・フォスはもっと年寄りだと思っていたんだけど、戦後生まれの人なんだな。
絵柄から小松崎茂世代と勘違いしてた。
小松崎茂っぽくない?

この映画は挫折した映画についての映画なのだが、観終わったあと、元気になれる。
ホドロフスキー自身がこの映画の「失敗」を前向きに捉えている。
84歳のホドロフスキーはまだ前を見て夢を語っている。
僕らの日々のちょっとした失敗なんてなんてことはない気がしてくる。
ホドロフスキーは夢が世界を変えると本気で信じている。
その本気さに打たれる。
本人は300歳まで生きたいと言っていたが、それくらい生きてほしい。

もうすぐホドロフスキー監督の久々の新作映画「リアリティのダンス」も公開される。
楽しみだ。

ヴィオレッタ

先日実駒が友人と観てきた映画が、エヴァ・イオネスコが自分の少女時代を描いた作品だと聞いて驚愕した。
エヴァ・イオネスコ?
あのエヴァ・イオネスコ?

エヴァ・イオネスコは70年代末から80年代初頭に活躍した少女モデルだ。
特に母親であるイリナ・イオネスコによる写真集が話題になった。
(他の写真家のモデルもしていた。)
日本では当時ブームだった少女ヌード写真の一つとして紹介されたが、エヴァ・イオネスコの存在感は一種異質なものがあった。
少女を撮る、という時、多くの写真家は多かれ少なかれ自然な子供らしさを強調する傾向があったが、エヴァ・イオネスコはその中で赤いルージュを引き、大人のようにしなを作って見るものを挑発した。
人工的で退廃的なエロスを感じさせた。
決して笑顔を見せなかった。
僕も当時彼女の写真を見ているが、そのモデルが、そして娘をモデルとしてエロティックな写真を撮っていたイリナ・イオネスコがどう思っていたのか疑問に思ったものだった。

そのエヴァ・イオネスコが自ら監督して、自分の少女時代をモチーフとして描いているのである。
これは観ないわけにはいかない。
それと同時にそれを観ることに多少の気後れもあった。
当時エヴァ・イオネスコの写真を見ていた側の人間として。

この映画で描かれているのは三代の女性たちの物語だ。
ばあばと呼ばれる保守的な祖母、奔放でエキセントリックな芸術家志向の母親のアンナ、そしてエヴァの分身であるヴィオレッタである。
男親は登場しない。
しかし物語の中で、その男親の果たした暗い過去はほのめかされる。

アンナは凡人を嫌い、何者かになろうとしている。
もうすでに若くはないが、世間に埋没することを拒絶し、自分に才能が有ることを信じている。
ばあばと娘のいる家にはほとんど寄り付かない。
そのアンナが男友達から譲り受けたカメラで写真を撮り始める。
その被写体として娘のヴィオレッタに目をつけるのだ。

まず保守的で信心深いばあばと、その母親が辿った道を断固拒否するアンナの間の葛藤があったはずである。
暴力的に男に人生を決められたばあばに対する嫌悪とそうはなりたくないのに同じ道を辿らされたことに対する怒り。
そこからなんとしても逃れたい、というアンナの強い意志が彼女のエキセントリックな性格を形作っていく。
ヴィオレッタはむしろおばあちゃん子なのだが、母親からモデルをするよう言われた時に、ある種の誇らしさを感じる。
カメラの前で母親に言われるままにポーズを取り、モデルになった写真が評判となり、芸術家のサークルの中にも入っていく。
そのきらびやかだが空疎な世界でちやほやされる自分と、小学校での当たり前の子どもとしての自分はどんどん乖離していく。
次第に母親の強烈なエゴに支配され、男たちの性的な視線にさらされることに耐えられなくなったヴィオレッタは「普通の子ども」になりたい、と言って母親を拒絶する。

アンナはヴィオレッタを愛していると信じている。
ヴィオレッタはアンナの所有物で、分身でもある。
アンナにとってはヴィオレッタのあり方は自分がそうありたかった存在だったかもしれない。
しかしアンナはヴィオレッタの気持ちを理解できない。
時として、アンナとヴィオレッタの関係が逆転しているように見えることがある。
ヴィオレッタが母親でアンナが子どものように見えるのだ。

しかしヴィオレッタにとってあまりに負担の大きいこの関係は破綻せざるをえない。
ヴィオレッタが母親から逃げて走っていく映像でこの映画は終わる。

あの写真集の裏にこのようなドラマがあったのだということは、ある意味では予想されたことではあったが、それをエヴァ・イオネスコは適度に距離を取りながら、そして皮肉なことに母親譲りの美意識を持って、美しく描いている。
実際この映画は美しい。
ヴィオレッタを演じた10才のアナトリア・ヴァルトロメイは当時のエヴァ・イオネスコ以上に美しく、この難役を文字通り体当たりで演じている。
アンナ役のイザベル・ユベールも圧倒的な存在感がある。
美術も素晴らしい。
映画の中にイリナ・イオネスコの美学が再現されている。

この映画を見て、男であり、彼女の写真を享受した側の人間としてどう反応するのが正解なのか、すぐには答えが出せそうにない。
この映画のアナトリア・ヴァルトロメイの美しさは見紛いようがない.
しかし彼女を「新星ロリータ」(パンフレット)と持ち上げることは問題の再生産ではないだろうか。
彼女が映画界で注目され、様々なオファーが来ることは間違いないだろうし、僕としても彼女の次回作が観てみたい。
しかしアナトリア・ヴァロトロメイが役者として充実した仕事をすると同時に、充実した子ども時代を過ごせるよう願わずにはいられないのだ。

東宝特撮ナイト第9夜(「海底軍艦」と「モスラ対ゴジラ」)

東宝特撮映画を公開順に観ていく東宝特撮ナイト第9夜は1963年の「海底軍艦」と1964年の「モスラ対ゴジラ」
二本とも本多猪四郎監督作品。
公開時に僕は1歳。

集団的自衛権容認というこのご時世に「海底軍艦」観るというのはなんだが変に考えさせられるものがある。
この映画が公開されたのは戦後18年の1963年末なのだが、映画の中では戦後20年と言っていて、少しだけ未来の話になっている。
宇宙ステーションなんかも出てきていて、気が早い。
海底のムウ帝国人が世界を再び植民地にしようとしている。
それに対抗するのが神宮寺大佐が極秘で製造した海底軍艦轟天号。
あれ?
「ごうてんごう」でちゃんと一発変換したぞ。

軍が秘密に開発していたロボットが活躍する「鉄人28号」が連載されていたのが1956年から1964年まで。
ナチスが日本人科学者と開発した巨人薬が出てくる「ビッグX」はこの映画と同じ1963年に連載が始まっている。
東宝特撮で言うと、1954年の「透明人間」が日本軍の発明だし、1965年の「フランケンシュタイン対地底怪獣」のフランケンシュタインがナチスの発明。
50年代半ばから60年台にかけてこういう設定の作品が次々に作られたわけだな。
それ以前だと占領期になるので、たぶんそういう設定の作品は作れなかったんじゃないかと思う。

今から18年前といえば1996年だ。
阪神大震災やオウムサリン事件の翌年である。
それくらいの時間感覚だと思えば、戦後18年なんてまだ戦争と地続きな時代だったのはよく分かる。
神宮寺大佐みたいは人がいたって全然不思議なかったんだろうな。
横井庄一さんが日本に帰ってきたのは1972年、小野田寛郎さんは1974年。
この映画のあともまだまだ戦争は続いていたのだ。

この映画のラストのムウ帝国の崩壊は物悲しい。
単純に悪が滅びて万歳とはならないのは建前ではなかっただろう。

「モスラ対ゴジラ」はたぶん僕が最初に劇場で観たゴジラ映画だと思う。
と言っても1歳の時に観たのではなくて、この映画は1970年にリバイバルで劇場公開されているのである。
おそらくその時に観ている。
その後も何度もテレビで観ているので、僕にとって一番懐かしいゴジラ映画、というとこれになる。
海岸に漂着した巨大な卵のイメージは鮮烈だ。
今観ても楽しめた。
かろうじてゴジラがまだ悪役然としている。
キングコングとゴジラの対決がいかにもプロレス然としていたのに比べると、モスラとゴジラは異種格闘技の趣。
金をめぐる人間のどろどろした部分もわりとちゃんと描いている。

この映画には「モスラ」で生物学者役で登場した小泉博がやはり生物学者役で出ているのだが、なぜか別の人物という設定になっている。
同一人物でいいんじゃないかと思うけどなあ。

あと、小杉義男が「キングコング対ゴジラ」に引き続き「酋長」役で出てくるんだけど、この人の濃い顔はこういう役でも映える。
「海底軍艦」では天野英世がムウ帝国の長老を演っていて、こちらも似合ってた。

次回は「宇宙大怪獣ドゴラ」と「三大怪獣地球最大の決戦」。

月に囚われた男

月極映画祭6月のお題は「観逃していたSF映画」、最後は比較的最近の作品で2009年の「月に囚われた男」。
監督のダンカン・ジョーンズはデイヴィッド・ボウイの息子だそうだが、あんまり似てないな。
これが長編映画監督デビュー。
公開当時けっこう話題になっていて、観たかったのだが観逃した。
以下ネタバレは最小限にしています。

色々懐かしい感じのする映画だ。
特典映像で監督本人が言っているように、70年代、80年台の様々なSF映画からイメージを持ってきている。
冒頭のシーンは「2001年宇宙の旅」を思わせるし、「惑星ソラリス」を思わせるところもある。
テレビの「スペース1999」なんかも連想する。
登場人物はほとんどサム・ロックウェル演じるサム・ベルという男だけと言っていい。
月世界でただ一人核融合エネルギーの原料であるヘリウム3を掘っている。
その任期が終わる直前にサムが事故に合うところから異変が始まる。
ストーリーはSFとしてはわりとオーソドックスなんだけど、これは映像にしてこそ意味がある。
サスペンスとしてはなかなかよく出来ている。
空気のない月で光が滲んだり拡散したりするのはまあ仕方ないか。

2009年の映画なんで、もちろんCGもたくさん使われているのだが、特典映像を見ると、けっこうミニチュアワークで撮られたシーンが多い。
なるほど、懐かしい感じがするわけだ。
メインのアイディア部分も、CGで補ってはいるが、かなり手作業で作りこんでいる。
実際相当試行錯誤して作ったんだろうなあ。
ピンポンのシーンが映像的には一番の見せ場かな。

ドラマは、さっきも書いたようにSFとしてはごくオーソドックスなものだけど、その状況であれば感じるであろう感情をサム・ロックウェルが丁寧に演じていて見応えがある。
A.I.のガーティがそれにさらに華を添えている。

監督は1971年生まれ。
この後もう一本SF映画を撮っているが、こちらも未見。
そのうちそちらも観て感想書きます。

7月の月極映画祭は今年5月に亡くなったH.R.ギーガーを偲んで、また「ホドロフスキーのDUNE」公開を記念して、「エイリアン」4部作を淡々と順番に観る予定。
夏はホラーだしな。
プロフィール

おがわさとし

Author:おがわさとし
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