生賴範義さん

生賴範義さんの「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」風にしてほしいと恩田さんに言われたんですが、と早川書房のS澤さんに無茶振りされたのは10年以上前のことだ。
恩田陸さんの「ロミオとロミオは永遠に」をJコレクションで出すことになった時のことである。
「ロミオとロミオは永遠に」はSFマガジン連載時に僕が挿絵をつけさせてもらっていた。
もちろん単行本の表紙は僕でなくてもいいわけで、S澤さんにしても僕が無理なら他の人(もしかすると生賴さん本人)に頼もうと考えていたに違いない。
しかし僕はこの作品に思い入れがあったし、出来れば表紙を描かせてほしかった。
とはいえ、あの生賴範義画伯である。
「風」と言われて「風」に描ける相手ではない。
「帝国の逆襲」のポスターは、ジョージ・ルーカス自ら生賴さんに依頼した国際版ポスターである。
パンフか何かがどこかにあるはずなのだが、例によって見つからない。
とりあえずアマゾンのユーズドで野田昌宏さんが訳された徳間文庫のノベライズ版(表紙が生賴さんのポスターだった)を入手し、それを拡大コピーして模写した。
かっこいい。
そして難しい。
当たり前だが。
模写を元に「ロミオとロミオ」の表紙絵のカラーラフを描いた。
その模写とカラーラフを両方S澤さんに送りつけて返事を待つ。
幸いOKが出て、僕が表紙を担当させてもらえることになった。
キャンバスにリキテックスでかなり大きめに描いた。
僕としてはかなり気合を入れて描いたつもりだ。
恩田さんは気に入ってくれたみたいでそれはとても嬉しかったのだが、後で東京創元社のK浜さんには、全然違う、と言われてちょっとへこんだ。
まあ、一朝一夕で「生賴範義風」が描ければ苦労はないのである。
生賴さんと言うと身の程知らずに「生賴風」に取り組んだあの頃のことをまず思い出す。

生賴さんの絵を最初に意識して見たのは、ご多分に漏れず平井和正さんのウルフガイシリーズだと思う。
中学時代にはまった。
生賴さんの描く犬神明は(ヤングもアダルトも)かっこよかった。
生賴さんの描く青鹿先生は中学生には相当エロかった。
表紙や口絵のカラー画ももちろんいいのだが、白黒の中イラストも魅力的だった。
「スターログ」の生賴特集を見て、その唯一無比の技術とセンスと世界観に感動した。
「帝国の逆襲」の国際版ポスターが生賴さんの絵になった時は我がことのように誇らしかったし、平成ゴジラシリーズのポスターを生賴さんが描くことになった時も嬉しかった。

去年の春、みやざきアートセンターで「生賴範義展」が開催された時ははるばる宮崎まで見にいった。
ゴジラのポスターや小松左京さん、平井和正さんを始め数多くの小説の表紙絵、「SFアドベンチャー」の表紙絵、それら原画を目の当たりにすることは至福だった。
宮崎滞在中に二回見にいった。
宮崎は神話の地でもあるが、その宮崎で生賴さんの絵を見ることには特別な意味があるように感じた。
生賴さんが神話だった。
今年の夏も同じみやざきアートセンターで「生賴範義展Ⅱ 記憶の回廊」が開かれ、やはり二回見にいった。
来年冬に開催される予定の「生賴範義展Ⅲ」も行くつもりだ。

デッサン力、色彩感覚、構図、描写力、ヴィジョン、アイディア、全てにおいて生賴さんは卓越していた。
人物を描いてもメカを描いても怪獣を描いても宇宙を描いても上手かった。
戦後出版美術の巨人だった。

生賴さんの訃報を聞いた翌日、1回生の授業で生賴さんの紹介をした。
持っていった生賴さんの画集を何人かの学生が食い入るように見ていた。
生賴さんの画業はこれからも絵を志す人間をインスパイアするだろう。
生賴さん、ありがとうございました。
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ギラーミン版キングコング

ギラーミン追悼、最後は「キング・コング」で。
1976年のギラーミン版リメイクは1933年の古典的傑作とピーター・ジャクソンによる2005年の野心作の間に挟まれてあまりパッとしない印象がある。
そういう立ち位置の映画ってあるよね。
ティム・バートン版の「猿の惑星」とかエメリッヒ版「GODZILLA」とか。
僕も当時、たぶん二番館に落ちてから観にいったのだけど、あまり感心しなかった記憶がある。

で、久しぶりに観てみたのだけど、意外にもかなり楽しめた。
この映画の最大の欠点はスカルアイランド(という名前は出てこないが)のシーンに恐竜が出てこないことだが、それを除けば娯楽映画として今観ても十分面白い。
1933年版ではストップモーション・アニメーション、2005年版ではCGだったコングはこの映画では着ぐるみ。
この着ぐるみコングがよく出来てる。
そのはずで、コングの造形は特殊メイクの巨匠リック・ベイカー(この頃はまだ新人)で本人がスーツアクターとして出演している。
表情が豊かで、着ぐるみモンスターとしては相当高い水準だと言っていい。
鳴り物入りだった実物大コングの出来は惨憺たるものだけど。

スカルアイランドのシーンは、スケール感もありなかなか楽しい。
セットやマットペインティングの作り物感も嫌いではない。
恐竜出てこないけど。(しつこい。)
ジェシカ・ラングは頭の軽いセクシーなブロンド娘というベタなヒロイン像をちゃんと魅力的に演じている。
なかなか出来るものではない。
後のオスカー女優の面目躍如たるものがある。

1933年版でも2005年版でもスキップしているスカルアイランドからニューヨークへの輸送の過程がこの映画では描かれている。(「キングコング対ゴジラ」には出てくるが。)
巨大タンカーの巨大な収容室に入れられたコングは小さくて哀れな感じだ。
この映画には「自然を破壊する巨大資本」に対する批判的な視点が入っており、そこが70年代的でもあり、ギラーミン的でもある。
髭面のジェフ・ブリッジスもその時代の雰囲気を伝えている。
エンパイアステートビルが世界貿易センターのツインビルに変わったことは当時がっかりポイントの一つだったが、今観るとこの映画に奇妙な悲壮感を与えている。
不謹慎かもしれないが。
ラストの苦味も味わい深い。

4週続きで今年9月に亡くなったジョン・ギラーミン監督の映画を観たのだが、実はギラーミンの映画の中で一番観たかった映画を今回入れていない。(DVDが高かったのだ。)
他にも何本か観たい映画があるのでもしかするとギラーミン追悼第2弾やるかもしれない。
「キングコング2」もあるしね。
(そういえば「キングコング2」の日本版ポスターって生賴さんが描いてるんだよなあ。)

新宝島2(サカナクション)

その余韻冷めやらぬまま、大阪城ホールでのサカナクション・ライブ。

サカナクションは去年くらいから聞いているのだが、ライブは初めて。
サカナクションというと僕にとっては「夜」のイメージと「水」のイメージ。
ライブももっと静かな感じかと思っていたのだが、実際のライブはパワフルで祝祭的だった。

といっても「夜」と「水」のイメージは変わらない。

マリンスノーが静かに舞い降りる深海に海底ドームがある。
その海底ドームに人々が集まり一夜の祭が行われる。
人々は音楽に酔い、音楽に合わせて踊る。
海底ドームから漏れ出る光がサカナたちを惹きつける。
やがて、太鼓の音と共に海底のマグマが蠢きだし海底火山が大爆発を起こす。
海底ドームは消え、僕らは海底でサカナたちともにいる。
そして僕らはいつの間にか海底で自然に息をしていることに気がつく。

サカナクションは夜の水底で息をする方法を教えてくれる音楽なのだ。

新宝島1(バクマン。)

先週の土曜は実駒とこの秋の3大マン映画の一つ「バクマン。」を観てからの、サカナクションライブ。

「バクマン。」は青春映画としても熱かったが、手作り感あふれる映画でもあった。
小畑健さんがすごく仕事している。
「この世は金と知恵」も「CROW」もかなりのページ数を映画用に描いているのだ。
小畑さんの美麗な絵を贅沢に使ったサイコーとシュージンの執筆シーンも、二人とエイジの紙面対決も、それぞれプロジェクトマッピングとCGを駆使した見応えのあるシーン。
単に技術的にできるからやってみました、というシーンではなく、マンガ家の頭の中を映像にして見せたところがミソ。
オープニングとエンディングの映像も素晴らしい。
びっくりしたのは、サイコーが川口たろうの「超ヒーロー伝説バックマン」の単行本をパラパラとめくるシーン。
もしかして、このシーンだけのために全ページ作ってる?
パラパラめくるんだから、白ページあったら困るよね?
他のマンガ家の作品もそれぞれ違う作家が相当作りこんでいる。
もちろんどんな映画も美術というのは大変な仕事だというのは分かっているが、この映画くらい作り手が楽しんで細部を作っていることが分かる映画はそうない。(「マッドマックス・怒りのデス・ロード」は別格だが。)
物語のテーマと合わせ、何かを作る楽しさが(その大変さ込みで)伝わってくるのがこの映画の一つの魅力だろう。
もちろん、それは僕がマンガというジャンルに関わっているからかもしれない。
キャストもそれぞれ魅力的だが、役者だけが映画を作っているのではない。

そしてもう一つの重要なパートである音楽がサカナクションだ。
この映画のために、普段マンガを読まないという山口一郎くんが作った曲が「新宝島」だというその事実だけで僕は胸が熱くなった。
実際ラストにタイトルが出たと同時にかかる「新宝島」を聞いた時は涙がこぼれた。
マンガに関わっていてよかった、と思った。

シーナ

ジョン・ギラーミン追悼第3弾で「シーナ」を観た。
いやいやいやなんで数あるギラーミン映画の中でこのセレクトと思う人もいるだろうが、前からちょっと気になってたのだ。
英語版Wikipediaによると1984年公開時に興行的にも批評的にも大コケして、ゴールデン・ラズベリー賞5部門でノミネートされた経歴を持つ作品。
原作は1930年代に始まったアメリカン・コミックスで、ワンダー・ウーマンより早く初めてタイトル・ロールとなった女性キャラクターなのだそうである。
こんな感じ。
sheena

ストーリーは早い話が女性版ターザンである。
アフリカの架空の国ティゴラの架空の部族ザンブリ族に育てられた白人の孤児シーナがジャングルの女王となって悪人と戦う話。
そこに例によってアメリカのジャーナリスト(白人・イケメン)とカメラマン(白人・コメディ要員)が絡んで、アフリカなんだけど白人中心に話が進む。
ヒロインの描き方と言い黒人の描き方と言い半裸の幼女/少女(シーナの子ども時代)と言い、政治的正しさ的にもその他アレコレ的にも今観るとかなりきわどい。
てかあかんやろ、と思うところが少なくない。

70年代から80年代にかけてアクション映画/テレビの中の女性像はお色気要員から戦う女へと変わりつつあったんだと思うけど、その過程で「お色気要員兼戦う女」という女性像が数多く出た。
パッと思いつくのを挙げるとこんな感じだ。

1976 「チャーリーズ・エンジェル」(TV)
1976 「バイオニック・ジェミー」(TV)
1977 「ワンダー・ウーマン」(TV)
1979 「エイリアン」(映画)
1984 「スーパーガール」(映画)

「エイリアン」のリプリーさんの5年後だと考えると、まあその時点でもだいぶ古かったことは想像に難くない。
ちなみに主演のタニア・ロバーツは「チャーリーズ・エンジェル」第5シーズンでエンジェルの一人を演じてたらしいのだが覚えていない、ていうか第5シーズンたぶん観てない。
「007 美しき獲物たち」のボンド・ガールだったのだけど、で、こちらは観てるけど、やっぱり覚えてないなあ。
グレース・ジョーンズの方は覚えてるが。

この映画のタニア・ロバーツは、脱ぎっぷりもよく木に登ったりシマウマを乗りこなしたりそれなりにがんばってはいるのだが、残念ながら魅力に乏しい。
演出的にも全体に平板で、たぶん主人公のテーマ曲らしい曲も緊迫感を削ぐ。
映画として褒められた出来ではない。

しかしこの映画にどこか惹かれるのは、もうこんな映画は作りたくても作れないだろうからだ。
時代の変わり目に現れて、作られた時にはもう時代遅れだった。
そういうエアポケットみたいな映画である。

クライマックスのザンブリ族と動物を率いて戦うシーナはけっこうかっこいい。
シマウマ、アフリカゾウ、チンパンジー、ライオン、ヒョウ、サイ、フラミンゴ、その他動物たちの活躍も楽しい。
まかり間違って21世紀の「シーナ」が作られたらやっぱり観に行くだろうな。
あ、ちっともギラーミン追悼になってない。

タワーリング・インフェルノ

ジョン・ギラーミン追悼、2週目は代表作「タワーリング・インフェルノ」を久しぶりに観た。

始まってすぐ色もタイトルロゴも美術も衣装も何もかも70年代の匂いがするのにちょっと驚いた。
1974年の作品なんで当たり前なんだけど、70年代の映画ってこんな大作でもどこかチープな感じがするのはなんでだろうね。
どこか、アメリカン・ニューシネマの匂いも漂う。
「明日に向かって撃て!」のポール・ニューマンと「俺たちに明日はない」のフェイ・ダナウェイが出ているというだけではなく、腐った体制派と信用できる反体制派、というような図式がそれとなく読み取れる。
1972年の「ポセイドン・アドベンチャー」に続く「パニック映画」の代表作とされる作品だけど、グラス・タワーという密室には当時の閉塞的な空気感が反映されていたのかもしれない。

当時「ポセイドン・アドベンチャー」の方が面白かったと思った記憶があるのだが、今観返すと案外地味な映画である。
派手なシーンはクライマックに少しあるくらいで、スペクタクル性という点では今観ると大したことはない。
むしろ265分という長い上映時間のほとんどが「小さな物語」の集積からなっていることが印象的だった。
オールスターキャストのグランド・ホテル形式映画だから、というだけでなく、非常に多くの登場人物を一人一人かなり丁寧に描き出している、という印象がある。
ポール・ニューマンとスティーブ・マックイーンが両看板なのだが、その二人のヒーローぶりを描くというより、その場にいあわせた市井の人々の小さな物語を描くことにかなり重点が置かれている。
パーティーの招待客のようなセレブより、ビルの警備員や消防士やバーテンのような平凡な人間をより共感を持って描いているのも確かだ。
「タワーリング・インフェルノ」と「キングコング」の監督ということでジョン・ギラーミンを大作スペクタクル映画の監督と勝手に思い込んでいたところがあるのだが、先週観た「喰いついたら放すな」にしてもこの映画にしても、むしろ小さな物語を描くのが得意な監督だったのかもしれない。

この映画で一番印象に残るのはフレッド・アステア演じる詐欺師の男だろう。
ジェニファー・ジョーンズを相手に、詐欺師になりきれない詐欺師を、繊細に優雅に、かつ哀愁たっぷりに演じている。
名演である。

アントマン

キングスマン、アントマン、バクマン。と言えばこの秋話題の3大マン映画だが、まずアントマンを観た。
最近のマーベル映画は安定して高水準。
この間の「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」が風呂敷広げすぎてややとっちらかった印象だったのに比べると今回はコンパクトで好感が持てる。
主人公もコンパクトだし。
いつものマーベル映画よりコメディ色が強くて、ホームドラマの味わいもある。
もちろんアクションもたっぷり。

コンパクトと言っても、要素はけっこう盛りだくさんで、二組の父・娘関係を軸にかなり多様な登場人物とアリが登場するのだが、よく整理されていてバランスがいい。
一人一人にドラマがあって、捨てキャラがいない。
アリも大活躍だ。
伏線もきれいに拾って、残した部分は続編に期待させる。
描かれていない部分(これがかなりあるのだ)を想像させるテクニックも含め、脚本が上手いなあと感心する。
個人的には泥棒三人組がお気に入り。
特に説明が回りくどいルイスがいいキャラ。
ピム博士はマイケル・ダグラスに似てるなあ、と思ったらマイケル・ダグラスだった。
老けメイクもしてるらしいのだが、もうこんなおじいちゃん役やる年なのか。
あ、70過ぎてるのか。
びっくりだ。

マーベル・シネマティック・ユニバースの一作なので、他のマーベル映画ともつながっているのだが、これ単体で観てもだいたい理解できる作りになっている。
強いて挙げれば「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」を観ておくと分かりやすいけど、観てなくても問題なし。

荒唐無稽な設定をそれらしい道具立てとCG技術で観客に納得させる技術はもう完全に確立されたものになっている。
いろいろ細かいところが気にならないわけではない。
原子間の距離を縮めるだけなら質量は変わらなそうなものだが、アリの上に乗れるくらいだから質量もサイズに合わせて変わるのだろう。
力は変わらないらしいのだが、質量がアリサイズになって力が変わらなければ桁外れの跳躍力があってもよさそうなのにそうはなっていないようだ。
まあそういうことは言うだけ野暮なのである。

ちなみに恒例のおまけは2つあります。
けっこう重要なおまけなので、最後まで席は立たないように。
おなじみスタン・リーは最後の方にわりとアップで出てきます。

祝福された荒野 「マッドマックス/怒りのデス・ロード」考

とりあえず、2015年は「マッドマックス 怒りのデス・ロード」が公開された年、ということでいいのではないか。
4回めのデスロードである。
今回は椅子は揺れるわ風は吹くわ水は滴るわ稲妻光るわ背中こづかれるわの4DX上映というものを体験した。
僕の知っている映画というものとはもはや別物のような気が。

今更なのだが、「怒りのデス・ロード」の感想を書く。

この映画の舞台はご存知の通り終末後の荒廃した未来だ。
水は枯れ緑はなく人々は短命だ。
にもかかわらず、この映画の登場人物たちはその長くはない人生を燃焼し尽くすように熱く生きる。
ウォーボーイたちも鉄馬の女たちも人食い男爵や武器将軍でさえもこの世界の中ではその生を肯定されている。
この荒野は祝福された荒野なのだ。
ここでは死も意味あるものとしてある。
彼らは前を向いて生き前を向いて死んでいく。

この映画にリピーターが多いのはこの世界が生きるに値する世界として描かれているからだ。
あの世界でV8を讃えたり太鼓を叩いたり長い棒の先にぶら下がったりしたいから観客たちは何度も映画館に足を運ぶのだ。

おそらくこの世界の中でマックスだけが自分を肯定出来ないでいる。
その意味でマックスだけが生きる意味を見失いがちな僕らの同時代人だ。

あの世界が生きるに値する祝福された世界であるならフュリオサたちの戦いは何だったのか。
世界が生きるに値するということと世界がbetterなものになりうることは矛盾しないのである。

そもそもイモータン・ジョーや人食い男爵、武器将軍たちは無秩序だった世界に一定の秩序をもたらし、水と石油と食料を管理することでそれ以前の世界よりbetterな世界を築き上げた世代である。
だからこそ彼らは自分に誇りを持っている。
ウォーボーイたちがジョーを称えるのもそのためだ。

しかし世界は常に不完全である。
そして世界は虐げられたものが声を上げる事でしかbetterなものにならない。
フュリオサとワイヴズたち、鉄馬の女たちの戦いの意味はそこにある。
彼らはbetterな世界でbetterな自分に出会うために戦う。
彼らとともに戦うことでマックスもまたbetterな自分を見出すのだ。

フュリオサたちの築く世界はイモータン・ジョーの築いた世界よりbetterなものになるだろう。
しかしそれはbestな世界でない。
未だかつてbestな世界などというものは存在しなかったし、これからも存在しないだろう。
フュリオサたちに出来なかったことは次の世代の仕事になる。
いつかフュリオサが新世代の戦士に倒される日が来るかもしれない。
それでもフュリオサたちの戦いは意味を失いはしないし、フュリオサは誇りを持って死んでいくだろう。
世界はそのようにしてしか前に進んでいかないのだ。

世界が生きるに値すること。
世界は常にbetterなものになりうること。

それを70歳のジョージ・ミラーがてらいもなく肯定しているから、この苛烈な映画はこんなにも優しいのだ。


Where must we go…
we who wander this Wasteland
in search of our better selves?

喰いついたら放すな

またまただいぶ間が空いたけど、で、それにはそれなり理由があるのだけど、それは流して今日から突然また通常運転です。

先月末ジョン・ギラーミン監督の訃報が届いた。
ジョン・ギラーミンといえば、ぼくらの世代にとっては「タワーリング・インフェルノ」とか76年版の「キングコング」とかのやや大味な大作映画の監督、というイメージで、最近は名前もあまり聞かなかった。
訃報で1925年生まれの89歳だと知ってちょっと驚いた。
もう少し若い監督だと思っていた。

そんなわけで今月はギラーミン追悼でギラーミンの映画のDVDを毎週一本ずつ観ます。
今日観たのは「喰いついたら放すな」(原題:NEVER LET GO)という1960年のイギリス映画。モノクロ。
ギラーミン、実はロンドン生まれのイギリス人である。
これも今回初めて知った。

主人公はうだつの上がらない化粧品会社のセールスマン、カミングズ(リチャード・トッド)で、その男が買ったばかりの車を盗まれるところから物語は始まる。
盗むのはチンピラの若者で、その親玉メドウズをピーター・セラーズが演じている。
この映画のピーター・セラーズはコメディ色一切なしのキレッキレの悪党。

悪者に脅され、捜査の邪魔をするなと警察に怒られ、会社はクビになり、奥さんにもあいそをつかれながら、カミングズは自分の盗まれた車に執着して危険を顧みず悪党に喰らいついていく。
まさにタイトル通りの映画だ。
カミングズは勇敢な人間でも正義感の強い人間でもない。
自分の不甲斐ない人生が、この車さえ取り戻せば変わるはずだ、という根拠の無い思い込みに突き動かされて、なりふりかまわず危険に身を晒していく。
奥さんは、車がなくても仕事がなくてもありのままのあなたを愛している、なんて言ってくれる大変理解のある人なのだが、その奥さんの言葉すらこの男の耳には入らない。
小心者のセールスマンが次第に狂気を帯びた孤高の闘士じみてくる。
最初は紳士然として現れる悪役のメドウズも、カミングズに追いつめられるうちに余裕を失い、愛人や手下にも逃げられ、それでも尊大さを失わない。
クライマックスは二人の対決になるのだが、二人はこの時点で二匹の手負いの獣のように互いによく似ている。

ギラーミンの演出はキビキビしていて、無駄がない。
クライマックスはイギリスの街が西部劇の舞台になったような錯覚を覚える。
音楽の使い方もかっこいい。
脇役一人一人にもスポットライトが当てられ、物語に重層的な厚みを与えている。
特に、物語の前半で重要な役割を果たす新聞売りの老人がいい。
ジョン・ギラーミン、30代半ばの佳作である。
プロフィール

おがわさとし

Author:おがわさとし
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