スター・ウォーズ/フォースの覚醒

待望の「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」を観た。
主人公はすぐに宇宙船運転できるようになるし、広い宇宙で大事な人同志ががばったり出会うし、帝国(ファースト・オーダーだが)のセキュリティは相変わらずなってない。
それも含めてこれはまさに「スター・ウォーズ」だ。
とても幸福な映画体験だった。

事前に「スター・ウォーズ」エピソード4〜6のオリジナル・トリロジーをDVDで観た。
正直言って今観ても映画として大傑作だとは思わない。
でも脇役の一人一人までまるで親戚の伯父さんかお兄さんのようによく知っていて顔を見れば懐かしい。
ボバ・フェットってこれしか出てこないんだっけとかウェッジ最後は大活躍だなとか。
そういう映画は他にそうたくさんあるわけではない。
今回観て初めて気がついたのだが、オリジナル・トリロジーには台詞のある女性がレイアとルークのおばさんベルー(エピソード4)と共和国のモン・モスマ(エピソード6)しか出てこない。
あとはクラウド・シティの住民(モブ)とかジャバ・ザ・ハットの宮殿のダンサーとかくらい。
ジャワやイウォークの性別はよく分からないが。
「スター・ウォーズ」が特別だったわけではなくて、その当時のアクション映画で女性はヒロイン一人というのは珍しくなかったと思う。
そういう意味では今回女性が主人公というのは必然だったのだろう。
もはや「女性はお姫様だけ」という時代ではないのだ。
ファースト・オーダーにもレジスタンス軍にも女性が自然に入っていていい感じだ。

主人公レイ役のデイジー・リドリーもフィン役のジョン・ボイエガも予告編で観た時はちょっとキャラが弱い気がしたのだけど、映画を観たらそんなことはなかった。
むしろ普通の若者が伝説の中に入っていく感じが新鮮でよかった。
最初の「スター・ウォーズ」の時の主人公たちもそうだったのだ。
そしてオリジナル・キャストたちの活躍は胸が熱くなる。
マーク・ハミル、ハリソン・フォード、キャリー・フィッシャーだけではなく、C-3POをアンソニー・ダニエルズが、チューバッカをピーター・メイヒューが演じているのだ。

今回の映画はかなり意識的にオリジナル・トリロジーをなぞっている。
ドロイドが大事なメッセージを託されるのも砂漠の星に主人公が暮らしているのも意外な親子関係が明かされるのも巨大な惑星型要塞への攻撃がクライマックスなのも観たことがあるシーンの連続である。
J.J.エイブラムス監督たち作り手のスター・ウォーズ愛が溢れている。
正直そこまでなぞらなくても、と思わなくもないが、ファン心をくすぐる脚本・演出であることは確かだ。
そして新しい物語が始まるドキドキ感はしっかりある。
次回作も楽しみだけど、それより劇場でもう一回観たいな。
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空と水と星と

先週の日曜日は実駒とメルヒェンな一日を過ごした。

まず大阪文化館・天保山の「愛と平和の祈り 藤城清治展」に行く。
最終日に行ったので、これから見たい人の役に立たないレビューになる。ご容赦。
藤城清治さんは1924年生まれの91歳。
ばりばりの現役影絵作家である。
僕は僕で昔「木馬座アワー」のケロヨンが大好きだったし、実駒は子供のころ「暮しの手帖」の連載を読んでいた。
その藤城さんが今も新作を次々に発表していること自体に感動する。
来年出版されるという「聖フランシスコの生涯」も大変な力作だ。
最近の作品ほど洗練されてシンプルになる、という風に変わっていっているようには見えない。
むしろ最近の作品ほどエネルギッシュになっているようにすら見えるのが驚異だ。
作風はかなり幅広いのだが、今回改めて見て藤城清治さんは幻視者なのだと思った。
藤城さんが特定の宗教の信者であるのかどうかは知らないが、その作品に宗教性のようなものを感じる。
人間世界を通して人間世界を越えたものを描いている。
光と影で作られる影絵という技法とあいまって、藤城清治さんは日本の幻想美術の中で傑出した存在なのだ。
先日亡くなった2歳年上の水木しげるさんがどちらかと言うと土俗的な幻想世界の描き手だったのに対して、藤城さんの幻想世界は透明感のある空と風と星の世界だ。
宮沢賢治と相性がいいのもそのせいだと思う。
もちろんトレードマークの小人たちはかわいく魅力的なのだが、描かれる世界は思いのほか壮大で宇宙的だ。

京都に帰って、MOVIX京都でまず「映画 ハイ☆スピード!-Free! Starting Days-」を観る。
実は僕は元になった「Free!」を観ていない。
家ではしょっちゅうかかっているのでチラ見程度には観ているが。
映画はテレビシリーズの前日譚で、主人公たちの中学生時代が描かれている。
まず、制服の描き方がフェティッシュだ。
詰め襟の制服というのは実はあまりメリハリがなくて描きやすいものではない。
身長が伸びることを見越して少し大きめに作ってある中学生の詰め襟の制服をアニメーションでここまでちゃんと描いているのは初めて見た。
光と影はここでも重要だ。
廊下を歩いているシーンの、背景が窓になるところでライティングが変わる。
実写なら当たり前のことだが、アニメーションでそれをちゃんと描いている。
そしてもちろんこの映画の影の主人公は水そのものだ。
どうやって撮っているのかよく分からないくらい、水の表現が秀逸である。
手描きとCGを組み合わせているのだが、夏のプールの、塩素の匂いすらしそうなくらいリアルな水の描写だ。
主人公たちのドラマについては正直言って言葉で説明しすぎている気がした。
悩みそのものもその解決も言葉で説明されてしまうことが多かったのは残念。
その中で遙と真琴が着衣で泳ぐシーンはアニメーションならではの美しさがあって印象に残った。
個人的には旭のばかっぽさが好きだったりするが。
これはメルヒェンではないのではないか、と思う人もいると思うけど、一種のメルヒェンだと思うな。
そのキラキラした純粋さにおいて。

さらにMOVIX京都で「リトルプリンス 星の王子さまと私」を観る。
字幕版の方。
僕は「星の王子さま」のよい読者ではないが、この映画は予告編を観た時から惹かれた。
実駒は「星の王子さま」のファンだ。
映画は「星の王子さま」を元にしつつ、「星の王子さま」の読み手と語り手を登場させることによって、フィクションと現実の関係を想像力豊かに描き出す。
「星の王子さま」の語り手はサン・テクジュペリ本人ではなく、物語の中の飛行士がそのまま年をとった老人で、その老人の隣に引っ越してきた少女、それに少女の母親が物語の一方の主人公。
こちらは3DCGで描かれている。
「星の王子さま」の物語そのものはそれとはテイストの違うストップモーション・アニメーションで描かれていてとても味がある。
少女の母親は絵に描いたような教育ママ(日本では死語だが)。
これ、アメリカにもこんなお受験的な世界があるのか、日本か韓国辺りの受験事情を元にしたフィクションなのかどっちだろう。
少女とお母さんは東洋人にも見えるので、後者なのかもしれない。
いずれにせよ、少女は名門校入学を控えた夏休み。
向こうは9月始まりだから、入学前の休みは夏休みなのだ。
夏の話が2本続いた。
冬観る夏の映画は眩しい。
それはともかく。
母親の言いつけ通りに生きてきた少女が、子どものような老人と老人の語る王子さまと出会い、自分の中の子どもに気づいていく。
少女の世界と王子さまの世界が交錯していくクライマックスが素晴らしい。
自分の中の子どもに気づいた少女がいつか自分で考え行動する本来の意味での大人に成長していく、というところがこの映画のミソだろう。

後日、高島屋で催された「リトルプリンス 星の王子さまと私展」も観に行った。
作り手のこだわりが伝わってくる展示で、もう一回映画を観に行きたくなった。

ボーダレス

「ボーダレス 僕の船の国境線」を観た。
イランのアミルホセイン・アスガリ監督による驚愕のデビュー作である。

まず、国境の川に座礁している廃船という舞台が魅力的だ。
映画はほとんどこの廃船だけを舞台にして進む。
この廃船にイラン人の少年が一人暮らしている。
その暮らしぶりがリアルに生き生きと描かれている。
それだけでもすでに魅力的なのだが、そこに隣国(イラク)の少年兵がやってきてドラマは一気に緊迫する。
廃船の中で互いにテリトリーを奪い合う二人は言葉が通じない。
イラン人の少年はペルシャ語を話し、隣国の少年兵はアラビア語を話す。
そこにさらに赤ちゃんとアメリカ兵が加わる。
アメリカ兵は英語しかしゃべれないし、あかちゃんはまだ言葉が分からない。
つまり、廃船という舞台の中に言葉の通じない四人がいる、というこれはもう設定の勝利である。
シンプルな中に非常に根源的なテーマが凝集している。

また、この映画はサスペンス映画としてよく出来ている。
語っているテーマは現代的でありかつ普遍的なのだが、テーマがむき出しになった頭でっかちな映画ではない。
最初から最後まで緊迫感を持ったエンターテイメントとして観る者を引っ張っていく。
子どもを主人公にしているが、子どもだからかわいく描こう、といういやらしさがない。
登場人物はそれぞれに生きるために必死に行動する。
そのリアリティがともすると観念的になりかねない設定に命を吹き込んでいる。
その前提があってこその、この作品のテーマである「ボーダレス」なのである。
けっして甘い映画ではない。
国境を越えて理解しあうことの困難を知っている人の、厳しく同時に優しい見事な映画である。

草原の実験

京都みなみ会館で「草原の実験」を観た。
新鋭アレクサンドル・コット監督のロシア映画である。

先日観た「裁かれるは善人のみ」もロシア映画だったけど、そう言えば僕はソ連崩壊後のロシア映画ってろくに観てないな。
ソ連時代の映画はけっこう好きなの多いんだけど。

「草原の実験」は、主要な登場人物が4人だけで、しかもセリフが一切ない。
舞台はどことも知れない草原で、そこに少女が父親(であるのはパンフで知ったが)と二人で暮らしている。
父親はモンゴル系の顔をしている。
その少女をめぐって幼なじみの男(やはりアジア系)とよそ者らしいヨーロッパ系の金髪の男が三角関係にある。
そのささやかな物語と、後で見る大状況が対比されて描かれる。

まず、映像が恐ろしく繊細で美しい。
光の表現が繊細極まりなく、人も物も景色も完璧な構図の中に切り取られて一部の隙もない。
そしてヒロインの少女が素晴らしく美しい。
パンフレットによるとエレーナ・アンという、父が韓国人、母がロシア人の韓国国籍の無名の新人だそうだ。
セリフのない映画なのだが、芯の強い聡明な少女を印象的に演じている。
というより、監督は演技させずに撮って、それをつないだらしい。

さて、ここからはネタバレ抜きで書くのがちょっと難しい。
先にお断りしておく。








この映画には最初から何か不穏な空気が流れている。
描かれているのは草原の質朴な人たちの生活なのだが、そこに介入する何者かの存在が描かれる。
最初に登場するのは翼のない白い飛行機に乗ってやってくる男たちだ。
父親はこの飛行機に乗せてもらってはしゃぐのだが、すでに翼のない飛行機という時点でおかしい。
この映画の非現実的なテイストを印象づける。
その後も軍関係者らしき人たちの存在がほのめかされる。
ある雨の夜父親はやってきた男たちによって裸にされ、ガイガーカウンターらしきものを突きつけられる。
父親の不審な死の後、少女が一人道を行くとその先には有刺鉄線が張られている。

実はポスターにある「世界を驚愕させた結末」は、そこまで行くとそれほど予想外というわけではない。
この草原がソ連の核実験場を意識していることはわりと早くから明らかだからだ。
むしろこの映画の登場人物は最初から死んでいて、終末後の世界の中で過去の記憶を繰り返しているのかもしれない。
そんな気にさせられるエンディングである。

この映画にはタルコフスキーの「サクリファイス」を思わせるところもあるが、寓話としての深みには欠ける。
素朴な人たちのささやかな幸せと絶対悪としての核兵器という構図が単純すぎるからだ。
しかしこの映画の魅力は「衝撃のラスト」ではなく、その細部にある。
ソ連映画のよき伝統を受け継いだ宝石のような光の芸術である。
アレクセイ・アイギによる幻想的で前衛的な音楽もまた素晴らしかったことを付け加えておく。

FOUJITA

9月に東京国立近代美術館で藤田嗣治の全所蔵作品展示というのを見た。
馴染みのある白い裸婦や猫の絵の他に、戦時中に描かれた戦争画が展示されていた。
その鬼気迫る暗い絵に強い印象を受け、それまでは、変な髪型だなあ、くらいにしか思っていなかった画家藤田嗣治に俄然興味が湧いた。

小栗康平監督がその藤田を題材に映画を撮るというので楽しみにして、二回観にいった。
実は小栗監督は昔いくつかの作品を観ているが特別好きな監督というわけではなかった。
非常に才能のある人なのは分かるが、その生真面目でしかつめらしい感じが若いころの僕にはどうも合わなかった。
しかし今回の映画はすんなり入り込めた。
題材に対する興味もあったし、オダギリジョーの飄々としたキャラクターが小栗監督の生真面目さと程よく調和していた。
ちなみに最初の方に出てくるカフェの名前が「Petit Marron」だった。
「小さな栗」で「小栗」だろう。
そういう洒落っ気のある人と思わなかったのでちょっと驚いた。

映画は前半で藤田嗣治のパリ時代を描き、後半で戦時中の日本での藤田嗣治を描いている。
その間はあえて描かず、まるで二本の違う映画みたいに並べている。
パリ時代の藤田は、外国人画家がたむろするモンパルナスで、お調子者だがしたたかに生きる芸術家として描かれる。
1920年代のパリの雰囲気が丹念に描かれ、その時代の芸術家が多数登場するのも楽しいところだ。
後半で描かれる戦時下の日本は当然1920年代のパリとは真逆と言っていい重苦しい雰囲気だ。
藤田も重苦しい戦争画を描き、決戦美術展では自分の描いた「アッツ島玉砕」の前で軍服を着て敬礼している。
しかし、藤田のどこか淋しげな感じは変わらない。
パリ時代のおかっぱ頭にちょび髭、時には女装もする藤田と、後半支給された軍服を着て疎開先の村を散歩する藤田はどちらもコスプレをしているように見える。
結局藤田はフランスでも日本でも異邦人だったのかもしれない。

この映画には二つの対立軸があるようだ。
一つは当然ながら、西洋(フランス)と日本である。
映画そのものがその二つの対立軸にそって構成されているし、貴婦人と一角獣のタペストリーの絵と喜多川歌麿の浮世絵が対置され、それが藤田の絵の中で融合されていくような構成にもそれは示されている。
フランス時代の女たちと日本での五番目の妻君代の対比もそうだ。

もう一つは近代と近代以前だ。
日本人にとっての西洋と戦争は結局近代の二つの顔だった。
その近代的なものに対して、後半近代以前的なものがクローズアップされる。
その近代以前を象徴するのが、狐であり、ケヤキの古樹であり、おそらく月だ。
実は一回目に観た時にはそこのところがよく分からなかった。
藤田が軍服を着て散歩している時に村の神木であろうケヤキの古樹に出会う。
何か超越的な雰囲気である。
加瀬亮が演じる村の青年が狐の伝承を話すのだが、そこには近代に圧殺された近代以前の魂のようなものが象徴されている。
君代も新しい下駄を下ろすときに、狐に化かされる話をする。
月については、疎開先の村では十三夜を祝う風習があり、君代がきれいな月ねえ、と空を見上げるシーンがある。
しかしカメラは何故かその月を映さない。
藤田も月を見ようとしないのである。
ここでは近代以前のものに対する藤田の無関心が示される。

映画のクライマックスで、藤田は狐に化かされるように、川向うの幽界へ迷い込む。
それまでのリアルな映像と違う幻想的な映像が圧巻である。
日本人形とフランス人形がそこでは仲良く並んでいる。
狐の浮世絵が映され、絵の中の狐火がめらめらと燃え上がり、カメラはその絵の上方にパンしていく。
当然そこで月が映るのだと思った。
しかし、そこでも月は映らず、戦闘機の爆音がかぶさり、水辺の映像になる。
その水の中に藤田の最後の戦争画「サイパン島同胞臣節を全うす」が浮かび上がり、エンディングとなる。

なぜ、水なのか。
前半のパリの酒場のシーンで、若者たちが連想ゲームのようなものをしているところが出てくる。
その中で、若い女が「月」に対して「水」と答えるのである。
やはりこの「水」は「月」なのだ。
そして、月は近代以前の魂であり、狂気の象徴でもあるだろう。
その月の中に、民間人の自決を描いた「サイパン島同胞臣節を全うす」が現れるのである。

しかし、なぜ月を直接映さず、水に置き換えるのか。
それも映画の中で藤田自身がしゃべっている。
藤田は、触れるものにしか興味が無い、と言っているのだ。
水は触れるが月は触れない。

後半の近代以前のものへの言及は小栗監督が元々持っていたテーマであろう。
しかし、単に近代以前の魂が近代に圧殺された、という単純な読みもまた禁物かもしれない。
最後に藤田を化かした狐は3DCGで描かれる。
それが映画の効果としてどうかというと微妙だと思うが、狐をあえて最新テクノロジーである3DCGで描く、ということに意味があったのだろう、という気はする。

何度も繰り返して観るに値する作品だと思う。
映像も素晴らしい。
個人的にはまるでキリコの絵のようなパリの古物市のシーンが好きだ。
小栗監督の他の作品も改めて観てみようかな。

ハッピーエンドの選び方

イスラエル映画「ハッピーエンドの選び方」を観る。
安楽死の問題を真正面から描いた喜劇映画。

まず、このミスリーディングな邦題に文句を言いたい。
原題(英題)は「THE FAREWELL PARTY」。
PARTYはこの場合はたぶん「パーティ」ではなく「集団、一行」の方の意味。
最近はゲームでよく使われる意味ですね。
「さよなら会」に引っ掛けて「さよなら団」という意味を持たせている。
では「さよなら団」とは何か。
主人公のヨヘスケルは老人ホームで暮らす発明家で、同じホームに暮らすヨナの夫を安楽死させる装置を作ることになる。
それに獣医のダニエルや元警官のセーガルらが加わって、安楽死を請け負う一行が出来上がる。
みんな迷いもなく安楽死を決行しているわけではなく、迷いも葛藤もありながら、そして一人一人がそれぞれの考えを持ちながら、自ら最後を選ぼうとする友人たちを助けようとするのだ。
それが「さよなら団」。(映画の中でその名前で呼ばれているわけではないが。)
そもそもかなりブラックなタイトルなのである。
ちなみに「仲間を集めてミッションに繰り出すという設定」は黒澤明の「七人の侍」の影響なのだそうだ。

この映画は喜劇映画としてとてもよく出来ていて、いたるところに笑いがある。
ブラックな笑いもなくはないが、むしろ老人たち(イスラエルでは有名な喜劇役者たちらしい)の一人一人が愛おしくなるような温かさがある。
年老いたゲイのカップルが当たり前のように出てくるのも好感が持てる。
しかし、扱っているテーマそのものはとてもシリアスなものだ。
そして、テーマに関するかぎり、監督たち(この映画の脚本・監督はシャロン・マイモンとタル・グラニットの男女の二人)は逃げていない。
人間は誰でも最後は死を迎える。
その死をどう迎えるのか。
安楽死は許されるのか。

ヨヘスケルの妻レバーナが認知症になり、物語は佳境に入る。
認知症の症状は非常にきめ細かく表現されていて、リアルだ。
もちろんそこでも過度に湿っぽくなったり暗くなったりするのではなく、映画は笑いを織り交ぜながら進んでいく。
しかし、最後に彼らは決断をしなくてはならなくなる。
それは「ハッピーエンドの選び方」というような甘ったるいものではないのである。

映画は一つの結論を押し付けようとはしていない。
むしろ問題を提起して、自分たちの問題として考えるよう観客を促す。
認知症の問題に関しては、たぶん、西洋人(イスラエル人を含めて)は日本人より心と理性を同一視する傾向が強いのではないかという気がする。
日本人は認知症になったからといってその人がその人ではなくなるとはあまり考えない。
しかし、この問題は最後は個人の問題だ。
結局自分の問題としてその問題を考えるしかないのだ。

イスラエルの映画というのを観るのはこれが初めてのような気がする。
ニュースで聞くイスラエルという国の印象はあまり良いものではない。
しかしこうやって映画を観るとイスラエルの人たちが僕らと同じように悩み、笑い、泣いているのだ(ヘブライ語で)というのが実感として分かる。
そういうことってけっこう大事なことだと思うんだ。

恋人たち

(前記事「裁かれるは善人のみ」の続き)
しかし、神の沈黙に怒るのは信仰のある者だけだ。
日本の僕らはそもそも神の存在を信じていない。

橋口亮輔監督久しぶりの新作「恋人たち」は神のいない国でそれぞれの不幸を抱える三人の男女を主人公にした作品だ。
三人の抱える不幸はそれぞれに事情も程度も違うが、それは神の不在というような次元になく、むしろある種の「間の悪さ」の結果であるように感じられる。
なにか人間を越えた大きな悪が関わっているのではなく、どこかで何かがずれてしまった結果主人公たちは居心地のいい居場所を失っている。

この映画にはタイトルが示唆するようなロマンチックなものはほとんどない。
僕らは映画や物語にロマンチックなものを期待する。
それがロマンチックであるかぎり、僕らは「心の傷」や「心の闇」だって大好きだ。
しかし目の前にいる人の「心の傷」や「心の闇」には本当は関わりたくない。
それは往々にしてくすんだ色をしてみすぼらしく嫌な匂いがする。
そしてそれに関わることはほとんど常に面倒くさい。
映画はそのダブルスタンダードに意識的だ。
主人公たちの抱える「心の傷」や「心の闇」はたいてい無視される。
映画はロマンチックではない不器用な主人公たちをただひたすら観察する。
僕らはカメラに合わせて観察を強いられる。
その観察の先に僕らはいつしかロマンチックではない不器用な主人公たちの等身大の痛みに一喜一憂している。

僕らの国には世界を創造した壮大な神はいない。
神様がいるとしたら、人生の小さな隙間にひっそりとその姿を隠している。
間の悪さが不幸を生んでも、どこかの隙間でひっそりと神様に会うことはあるかもしれない。
この映画のロマンチックなタイトルは最後に出る。
それまでにどこかの隙間で神様に出会えたらこの映画は成功なのだろうし、あるいはそれは映画を観た後の話なのかもしれない。

「裁かれるは善人のみ」

京都シネマで重い映画を2本続けて観る。一本はロシアのアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の「裁かれるは善人のみ」、もう一本は橋口亮輔監督の「恋人たち」。

スビャギンツェフ監督の作品を観るのは初めて。
冒頭フィリップ・グラスの切迫感のある音楽に合わせて荒々しい海と沈みかけた廃船の映像がすでにある種の予兆をはらんで流れる。
物語自体は、寂れた海沿いの街を舞台にした自分の家を市長に接収されようとしている男とその家族の物語だ。権力によってささやかな暮らしが壊れていく物語であり、現代ロシアの腐敗した権力に対する批判をそこに見るのは容易い。しかしこの悲劇全体を覆う禍々しくも崇高な雰囲気はこの映画を単なる(と言っていいのか分からないが)社会派の映画とは趣の違うものにしている。
悪役である市長は狡猾ではあるが実は小心者の小役人だ。
そういう人物が権力と結びついた時に大きな悪をなすことを我々はナチス・ドイツの歴史から知っている。
しかし、この映画が描こうとしているのはその人間的な悪というより、むしろ「神の沈黙」ではないか。
狡猾な悪が善良な人間のささやかな幸福を奪おうとしている時に神はなぜ沈黙しているのか、そのことに対する怒りのようなものが映像からは感じられる。

原題(英題)は「LEVIATHAN」、つまり聖書の海の怪獣レビヤタン(リヴァイアサン)である。
実際映画の中には鯨の骨と鯨そのものも登場する。
鯨の骨は死せる神を思わせ、ヒロインが死の直前に見る黒い鯨は逆らい難い暗い運命を暗示しているようだ。
また主人公の家をパワーシャベルが壊していくシーンの痛々しさも象徴的な次元にあるように思う。
パワーシャベルは単に権力の象徴ではなく、小さく幸福なものを破壊する禍々しい力の具現化であるように感じられる。
若者たちがたむろする崩壊寸前の教会も信仰の無力を象徴しているだろう。
救いのない悲劇の後に美しい自然の映像が入るのは、この美しい自然を作った偉大なあなたは今どこにいるのか、という怒りなのだと僕は感じた。

屍者の帝国

アニメーション映画版「屍者の帝国」を観た。

原作にあるエピソードをかなり丹念に映像化している。
映像だけ観るかぎり原作にかなり忠実であると言っても過言ではない。
正直言ってここまでちゃんと映像化していると思わなかった。
力業である。

では全体として原作に忠実な映画化であるかと言うとそういうわけではない。
原作のかなりのボリュームは会話で占められている。
その会話の中に盛られている膨大な情報、論理、思索が原作の一つの読みどころになっている。
映画はそこをばっさり切っている。
9割5分くらいは切られていると言っていい。
したがって会話の中にしか出てこないものは基本的に出てこない。
三原則もアララトもスペクターも菌株も出てこない。
それを補う形でワトソンとフライデーの関係やヴィクターの手記やザ・ワンやハダリーの設定が改変され、物語は別物と言っていいものになっている。
いわば外観をそのままにして中身をそっくり入れ替えたという形だ。
それはアクロバティックですらある。

原作のファンは気に入らないかもしれない。
実際、映画のストーリーは分かりやすくはあるがベタといえばベタだ。
しかしその代わりとてもエモーショナルな映画になっている。
僕はこれはこれでありだと思った。
そもそも原作はそのままでは2時間かそこらの映画にはなりようがない。
なんとか刈り込んで2時間に収めたとして、面白い映画になるとは思えない。
こういう形で映像化した監督の蛮勇を買いたい。

元々伊藤計劃さんの書いたプロローグを伊藤さんの死後円城塔さんが引き継いだ時点で物語は別のものに変わっている。
物語を語り継ぐというのはそもそもそういうものである。
ではこの映画が原作のエッセンスを継いでいないのかというと案外そうでもない気がする。
正直に言うと僕が原作をきちんと理解しているかどうか極めて心もとないのだが、エンドクレジットに被って流れるフライデーの独白を聞いて、ああこれは確かに「屍者の帝国」だ、と思った。
その成り立ちを含めこの物語のはらむ魂の在り処への切実な問いかけはこの映画に確実に生きている、と思う。

個人的な感想をいくつか。
「吸血鬼ドラキュラ」関連の設定が完全になくなっているのはドラキュラ好きとしてはちょっと淋しかった。
その代わり映画にしか出てこないキャラクターにマニーペニーがいて、これは007好きとしてはうれしかった。
あと、僕はいい加減「カラマーゾフの兄弟」くらいは読むべき。

コードネームU.N.C.L.E.

今年のスパイ映画の氾濫ぶりはちょっと異常なくらいだけど、本命の「スペクター」の前に「コードネームU.N.C.L.E.」を観た。
往年の人気テレビシリーズ「0011ナポレオン・ソロ」の映画化作品だが、元のテレビシリーズは観ていない。
監督は「シャーロック・ホームズ」シリーズで有名なガイ・リッチーだが、ガイ・リッチー監督作品も実は初めて。

「ミッション・インポッシブル(スパイ大作戦)」も「007」も現代にアップデートしているのに対して、この映画は元のテレビシリーズを踏襲して時代を1960年代に設定しているのがミソ。
1960年代というとまだ冷戦期である。
その時代にアメリカのエージェント、ナポレオン・ソロとソ連のエージェント、イリヤ・クリヤキンがコンビを組む、という設定は当時としては新鮮だったろうし、それが2015年の現代にも通用する要因にもなっている。
今のスパイ映画ブームの一つの特徴は、国家を信じられない時代のスパイ映画だということだ。

しかし映画はそういう固い話はとりあえず抜きに、ひたすらオシャレに軽やかに展開する。
まず、ファッションセンスのまるでない僕が観てもこの映画の60年代ファッションは見もの。
次に音楽だ。
シーン毎に見事にマッチした(あるいは意図的にミスマッチな)音楽がつけられ、音楽映画としても見事。
英語以外の言語がかなり出てくるのだが、その時の英語字幕のデザインまで60年代風でオシャレなのだ。
まるで本当にその時代に作られた映画であるかのようなこだわりよう。

アクションは軽めで、今の時代の映画として観ると物足りなくもある。
むしろ暑苦しいアクションを避けて、軽いジョークを優先させている感じを受ける。
ナポレオン・ソロがトラックの中で優雅にワインとサンドイッチの食事をしている後ろでイリヤ・クリヤキンが水上の死闘を繰り広げているのが遠くに見えている、なんてシーンがいかにもこの映画らしい。
この、平然としている主人公の後ろで大変なことが起こっている、というパターンは他にも出てくる。
クライマックスもちょっとあっけない感じはあって、全体に薄味な感は否めない。
全編コテコテの「キングスマン」と比べると特にその感が増す。

この映画はシリーズものの第一作、という作りになっていて、米ソの主人公二人とドイツ人ヒロイン、それにイギリス人上司という国際色豊かなキャラクター構成はなかなか楽しいし、60年代テイストで続編が作られるのなら観たい気にさせられる。

ところで、僕が行った時にはパンフレットが品切れになっていた。
毎回映画に行くたびにパンフレットを買うのは止めようと思わなくもないのだが、なければないで不便である。
ナポレオン・ソロを演じていたのが「マン・オブ・スティール」のスーパーマン、ヘンリー・カヴィルだというのも帰ってネットで検索して分かった始末。
やっぱり映画を観たあとにパンフレット読むのは映画を観る楽しみの一部であることだよなあ。
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おがわさとし

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