風立ちぬ

今頃「風立ちぬ」かよ!
と思われるだろうけど、今頃「風立ちぬ」である。

実は「風立ちぬ」は9月に一度観ている。
先代のパソコンがご臨終あそばして、パソコンレスな生活を送っていた、世に言う「空白の2ヶ月」のことであった。
派手な見せ場もないので少々退屈しながら観ていたら、ラスト近くになってじわじわと涙が湧いてきてきてしばらく止まらなかった。
あまり経験したことのない映画体験だった。
MOVIXでまだ一日一回上映が続いているので、もう一回観にいったのである。

この映画はそれまでの宮崎駿監督の映画とは趣が違う。
これまで宮崎駿の映画は主に子供に向けて作られてきた。
それらの映画では、描かれたものを理解すればいいように作られていた。
それに対して、この映画は「描かれていないもの」に意味があるように思う。
この映画が描かないのは「個別の死」である。
関東大震災や第二次世界大戦を背景にしながら、この映画の中で誰かが死ぬシーンが描かれることはない。
堀越二郎の「零戦」を読むと、零戦の開発過程でテストパイロットが二人亡くなっていて、そのことが大きく描かれているが、映画はそれも描かない。
堀辰雄の「風立ちぬ」はヒロインの死のシーンを描かないことは同じなのだが、それ以前に病棟の患者が自殺したり病死したりするシーンがある。
その描写も映画にはない。
宮崎映画はそれまでも死をあからさまに描くことを避ける傾向があったが、それとは異なる。
死を直接描いていないにもかかわらず、この映画には常に死の影が立ちこめているからだ。

ではなぜ宮崎駿は個別の死を描くことをこれほど慎重に避けているのか。
それは人が死ぬことは当たり前だからだ。
それはこの映画の前提条件なのである。
戦争では多くの人が命を落とす。
しかし戦争がなくても、天災に遭うかもしれない。
運良く戦争にも天災にも遭わなくても病気になるかもしれない。
大きな病気にかからなくても、やはりいずれ人は死ぬ。
だから与えられた時間は十年だとこの映画は言うのだ。
十年の月日が与えられない人もいる。
運良く十年を超えて時間を与えられる人もいる。
しかし百年与えられる人間は少ない。
与えられる時間は決して長くはない

この映画は一見この時代を美化しているように見えるかもしれない。
そうではない。
戦争に向かう暗い時代にも懸命に生きようとした人がいることをこの映画は描いているのだ。
時代のせいにするな、と言っているのだ。
生まれてくる条件は選べない。
与えられた時間は有限だ。
それを受け入れてその中で精一杯生きろと言っているのだ。

生きている人間は先に死んだ人間の思いを引き継いで生きている。
最近そう思うことが多くなった。
この映画の奈穂子はそんな死者を代表している。
死者をかわいそうだと思うのではなく、死者が精一杯生きたことを認めて、自分はその先を生きるしかないのだ。
死者に背中を押されながら。

この映画をもう一度観ることは当分ないと思う。
それよりも僕は僕に与えられた十年を懸命に生きようと思う。
そんな風に思った一本だ。
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