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脳内ニューヨーク

フィリップ・シーモア・ホフマン追悼特集第3弾。
監督は「マルコヴィッチの穴」の脚本家、チャーリー・カウフマンで、これが初監督作品。
「マルコヴィッチの穴」は予告編しか観たことないけど、けったいな映画だなあと思っていた。
この映画もけったいな映画なんだろうなあ、と思いながら観た。
予備知識として、コメディではない、というのは知っていた。
コメディではない。
むしろ暗い映画である。
何か笑える映画を観たい、という時に観る映画ではない。
DVDのパッケージのイメージにだまされないように、それだけは忠告しておく。
以下ネタバレあり。

主人公のケイデン・コダート(これがフィリップ・シーモア・ホフマン)は注目されている舞台の演出家で、画家の妻との間に4歳になる可愛い娘がいる。
一見恵まれた環境にいるケイデンだが、夫婦仲はぎくしゃくしていて、健康上の問題等も抱え、ケイデンはむしろ鬱々と日々を送っている。
物語はそんな風に、ある中年男性の悩み多き日々のリアルな描写から始まる。
その物語がどこからか常軌を逸し始める。
重要な登場人物であるヘイゼルという女性は、今まさに火事になりつつある家の中を不動産屋と歩きながら購入を決める。
この後、物語の中では何十年もの時が流れるのだが、この家は常に火事なのである。
「火宅」という言葉がある。
ネットの辞書で見ると「仏語。煩悩(ぼんのう)や苦しみに満ちたこの世を、火炎に包まれた家にたとえた語」だそうである。
カウフマン監督がこの言葉を知っていたのかどうかは分からないが、まさにこの家は「火宅」なのである。
ただ、ヘイゼルが特に煩悩や苦しみに満ちていたわけではない。
この物語の登場人物の多くが多かれ少なかれ「火宅の人」なのである。

この映画の中での時間の流れ方はかなり奇妙で、あれ?と思う間に何年も時間が経っていたり、何年も時間が経っているのに本人は気づかなかったりする。
しかし、僕も半世紀少しを生きて思うのだが、人生の時間は「映画のように」理路整然と流れたりしない。
個人にとっての時間はそもそもちぐはぐなものなのである。
世界にとって僕の人生は一瞬だが、僕にとって世界は僕が生まれてから死ぬまでの間しか存在しない。
そのように、矛盾していて、他人と共有できない時間を個人は生きるのである。
この映画の時間の流れの異様さに最初は戸惑うが、慣れてくると人にとっての時間はこんな風に夢のように過ぎるのだと妙に納得する。

後半、ケイデンをずっと追っていたという初老の男が現れる。
この男はその直前に死んだ父親の影を宿している。
ちなみにこの映画では夥しい数の人が死ぬ。
死の影がずっとこの映画を支配している。
その男がケイデン役を演じ、いつまでも初演を迎えないケイデンを主人公とした演劇のリハーサルを延々とケイデンが演出することになる。
この迷宮性がこの映画の最大の見所。
複雑なセットと相まって、演じる者/演じられる者、演出する者/演出される者の区別がなくなっていく。
最後はもうSFみたいなことになってしまう。

何しろ複雑怪奇な映画なので簡単に要約は出来ないのだが、この映画は単に奇を衒っただけの映画ではない。
監督・脚本のチャーリー・カウフマンは、その魔術的な脚本と映像にもかかわらず、不器用な人なのだと思う。
その不器用さは信用できる。
そしてケイデン・コダートは僕にとって特別なキャラクターになった。
この役はフィリップ・シーモア・ホフマン以外には考えられない。
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