サクリファイス

と言っても、タルコフスキーの遺作を観たわけではない。
今日は祇園会館でクリント・イーストウッドの最近作2本を実駒と観た。
「グラン・トリノ」と「チェンジリング」の2本だ。
この順番で観た。
祇園会館が同じ監督で2本そろえるのはとても珍しい。
しかしこれは2本1000円で観る映画ではなかった。
感銘を受けた、と言う表現はあまり適切ではない。
少し大げさに言えば、打ちのめされた。
そのせいで、平明な映画なのに、あらすじが上手く飲み込めなかったりした。
いや、あらすじくらいなら書けるかもしれない。
でも僕が見たものはそれとは違った。
2本の映画は、共通する部分もあるが、基本的に違う映画だ。
しかし僕はそれを一つの連続した体験として受け止めた。
その間、そして観終わった後、僕の頭の中にずっと浮かんでいた言葉が「サクリファイス」だった。
日本語に訳せば、「犠牲」だが、それとはニュアンスが違う。
手元の辞書によれば、sacrificeの語源は「神聖(sacri)にする(fice)」だ。
2つの映画は腐敗と暴力に満ちた現実を扱っている。
その中である悲惨な死がもたらされる。
その死が、汚れた現実を浄化する。
その死に、聖性が宿る。
これは危険な誘惑だ。
誰かの幸福のために誰かが犠牲になるべきではない。
殉教者をあがめることが正しいことだとは思わない。
しかし、冷徹な摂理のように、悲惨であるべき死が聖性を帯びることがある。
クリント・イーストウッドの2本の映画はそれを自然科学的な冷静さで描いているように僕には思えた。
これはひどく大雑把な見方だ。
僕個人の印象に過ぎないかもしれない。
僕はいささか混乱しているようだ。
2本の映画がそれぞれに持っている豊かな内容を僕は見落としているに違いない。
しかし、クリスチャンでもない僕がこの2本の映画から受けた印象はやはりどこか宗教的なものであったと思う。
誤解のないように言っておくが、この2本の映画は非常にリアリスティックな映画で、神秘的な出来事や奇跡が起こるわけではない。
しかし現実の中に何か聖性を帯びたものが立ち上がる瞬間を目撃したような、そんな印象が僕にはある。
少し頭を冷やして、もう一度このプログラムを観にいこうと思う。
もう少し時間をかけて考えるべき内容を持った映画だと思う。
クリント・イーストウッドが長いキャリアの果てに辿り着いた場所をもう一度じっくり見てみたい。
スポンサーサイト
プロフィール

おがわさとし

Author:おがわさとし
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR