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野のなななのか

大林宣彦監督の新作を京都みなみ会館で観てきた。
この映画は「人は常に誰かの代わりに生まれ誰かの代わりに死んでいく」というナレーションとテロップから始まる。
当然、同意できない、と言う人もいるだろう。
でも、僕は最近そう思うようになってきた。
誰かの代わりに、とまでは言わなくとも、死者の思いによって生かされているのだ、と感じることはある。
この世界は死者と生者によって織りなされているのだ、とも感じる。

実のところ大林宣彦という監督は僕の中ではすっかり過去の監督になっていた。
初期の尾道三部作などは熱心に観たが、次第に疎遠になり、最近の作品はそもそもタイトルすら知らなかった。
その大林監督の作品を再び観ようと思ったのは、前作の「この空の花」の評判がずいぶん良かったからだ。
美術評論家の椹木野衣さんあたりが絶賛していた。
その「この空の花」は京都みなみ会館で観たのだが、今まで観たことのない種類の映画だった。
ものすごい情報量と氾濫するイメージ。
いろんなタイプの映画を観てきたつもりだが、こんな映画は観たことがなかった。
でも、僕はこの映画を消化できた気がしなくて、それでブログにも感想を書いていない。

今回の「野のなななのか」も消化できた気がしないが、メモ程度に感想を書き留めておく。
この映画では死者と生者が同じように登場ししゃべる。
それを理屈では全く説明していない。
映像の力だけでそれを納得させている。
主人公である光男という老人は冒頭、2013年3月11日の14時46分に亡くなる。
ちょうどあの日からきっかり2年目であり、この映画の死者が震災の犠牲者とつながっていることを暗示する。
それともう一つの歴史がこの映画の基調にある。
1945年8月15日より後の日ソ樺太戦で、恥ずかしながら僕はこの歴史上のエピソードを知らなかった。
その光男は死んだままラストまでずっと出てくるのだ。
タイトルの「なななのか」は光男の四十九日のことで、その間の光男とその家族、その周辺の人たちのドラマに戦争の話や舞台になっている芦別の話が饒舌に絡んでいく。
映像は魔術的でさすがに大林監督だ。

反戦、反核というテーマが直接的で、普通の監督がやったらベタすぎる。
しかし大事なことを臆面もなくくどくどと言葉にするこの話芸は老境の大林監督にして初めてなし得るものだと思う。
大林監督は映画は100回観てほしそうだが、それは無理として「この空の花」と「野のなななのか」を続けて観たい。
月極映画祭(僕が勝手にそう呼んでるだけですが)で大林監督特集やるか。

ところで、この映画のパンフレットは大林監督と高畑勲監督の対談を始めとしてお買い得な内容になっているので、観に行った人は買うといいよ。
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