祝福された荒野 「マッドマックス/怒りのデス・ロード」考

とりあえず、2015年は「マッドマックス 怒りのデス・ロード」が公開された年、ということでいいのではないか。
4回めのデスロードである。
今回は椅子は揺れるわ風は吹くわ水は滴るわ稲妻光るわ背中こづかれるわの4DX上映というものを体験した。
僕の知っている映画というものとはもはや別物のような気が。

今更なのだが、「怒りのデス・ロード」の感想を書く。

この映画の舞台はご存知の通り終末後の荒廃した未来だ。
水は枯れ緑はなく人々は短命だ。
にもかかわらず、この映画の登場人物たちはその長くはない人生を燃焼し尽くすように熱く生きる。
ウォーボーイたちも鉄馬の女たちも人食い男爵や武器将軍でさえもこの世界の中ではその生を肯定されている。
この荒野は祝福された荒野なのだ。
ここでは死も意味あるものとしてある。
彼らは前を向いて生き前を向いて死んでいく。

この映画にリピーターが多いのはこの世界が生きるに値する世界として描かれているからだ。
あの世界でV8を讃えたり太鼓を叩いたり長い棒の先にぶら下がったりしたいから観客たちは何度も映画館に足を運ぶのだ。

おそらくこの世界の中でマックスだけが自分を肯定出来ないでいる。
その意味でマックスだけが生きる意味を見失いがちな僕らの同時代人だ。

あの世界が生きるに値する祝福された世界であるならフュリオサたちの戦いは何だったのか。
世界が生きるに値するということと世界がbetterなものになりうることは矛盾しないのである。

そもそもイモータン・ジョーや人食い男爵、武器将軍たちは無秩序だった世界に一定の秩序をもたらし、水と石油と食料を管理することでそれ以前の世界よりbetterな世界を築き上げた世代である。
だからこそ彼らは自分に誇りを持っている。
ウォーボーイたちがジョーを称えるのもそのためだ。

しかし世界は常に不完全である。
そして世界は虐げられたものが声を上げる事でしかbetterなものにならない。
フュリオサとワイヴズたち、鉄馬の女たちの戦いの意味はそこにある。
彼らはbetterな世界でbetterな自分に出会うために戦う。
彼らとともに戦うことでマックスもまたbetterな自分を見出すのだ。

フュリオサたちの築く世界はイモータン・ジョーの築いた世界よりbetterなものになるだろう。
しかしそれはbestな世界でない。
未だかつてbestな世界などというものは存在しなかったし、これからも存在しないだろう。
フュリオサたちに出来なかったことは次の世代の仕事になる。
いつかフュリオサが新世代の戦士に倒される日が来るかもしれない。
それでもフュリオサたちの戦いは意味を失いはしないし、フュリオサは誇りを持って死んでいくだろう。
世界はそのようにしてしか前に進んでいかないのだ。

世界が生きるに値すること。
世界は常にbetterなものになりうること。

それを70歳のジョージ・ミラーがてらいもなく肯定しているから、この苛烈な映画はこんなにも優しいのだ。


Where must we go…
we who wander this Wasteland
in search of our better selves?
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