「裁かれるは善人のみ」

京都シネマで重い映画を2本続けて観る。一本はロシアのアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の「裁かれるは善人のみ」、もう一本は橋口亮輔監督の「恋人たち」。

スビャギンツェフ監督の作品を観るのは初めて。
冒頭フィリップ・グラスの切迫感のある音楽に合わせて荒々しい海と沈みかけた廃船の映像がすでにある種の予兆をはらんで流れる。
物語自体は、寂れた海沿いの街を舞台にした自分の家を市長に接収されようとしている男とその家族の物語だ。権力によってささやかな暮らしが壊れていく物語であり、現代ロシアの腐敗した権力に対する批判をそこに見るのは容易い。しかしこの悲劇全体を覆う禍々しくも崇高な雰囲気はこの映画を単なる(と言っていいのか分からないが)社会派の映画とは趣の違うものにしている。
悪役である市長は狡猾ではあるが実は小心者の小役人だ。
そういう人物が権力と結びついた時に大きな悪をなすことを我々はナチス・ドイツの歴史から知っている。
しかし、この映画が描こうとしているのはその人間的な悪というより、むしろ「神の沈黙」ではないか。
狡猾な悪が善良な人間のささやかな幸福を奪おうとしている時に神はなぜ沈黙しているのか、そのことに対する怒りのようなものが映像からは感じられる。

原題(英題)は「LEVIATHAN」、つまり聖書の海の怪獣レビヤタン(リヴァイアサン)である。
実際映画の中には鯨の骨と鯨そのものも登場する。
鯨の骨は死せる神を思わせ、ヒロインが死の直前に見る黒い鯨は逆らい難い暗い運命を暗示しているようだ。
また主人公の家をパワーシャベルが壊していくシーンの痛々しさも象徴的な次元にあるように思う。
パワーシャベルは単に権力の象徴ではなく、小さく幸福なものを破壊する禍々しい力の具現化であるように感じられる。
若者たちがたむろする崩壊寸前の教会も信仰の無力を象徴しているだろう。
救いのない悲劇の後に美しい自然の映像が入るのは、この美しい自然を作った偉大なあなたは今どこにいるのか、という怒りなのだと僕は感じた。
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