彼女の消えた浜辺

京都シネマでイラン映画「彼女の消えた浜辺」を観る。
イラン、という国については、イスラム原理主義の問題とか核開発問題とかを漏れ聞く程度の知識しかなく、たぶんアッバス・キアロスタミの何本かの映画を観ていなければずいぶんきな臭いイメージで見ていたと思う。
しかしキアロスタミの描くイランもある一面に過ぎないことがこの映画を観るとよく分かる。
キアロスタミの描く貧しく素朴な人たちの映画とは違い、この映画のイランはとても現代的で都会的だ。
しかし即物的なイメージはなく、精神性の高い、ある種の象徴的なイメージに満ちた映画になっている。
以下ネタバレを含む。

主人公たちはテヘランの中流階級の人たちで、海辺にバカンスに来ている。
彼らはとても陽気で開放的だ。
女性たちはヘジャーブと言われる肌を露出しない服を着ているけれど、かと言って特に抑圧的に扱われている印象はない。
確かにある程度の性役割はあるが、日本のそれに比べて特に厳しい印象もない。
前半の部分に関しては、役者をそのまま西洋人に置き換えたらフランス映画かスペイン映画だと言われても違和感がないくらいだ。

子供の一人が海で溺れるところから一気に物語は緊張する。
子供は無事助かるが、子供を見ていたはずのエリという若い女性の姿が見えない。
そこから彼女の不在をめぐってサスペンスに満ちた群像劇が始まる。
女性の不在をめぐるサスペンスと言えばヒッチコックの「レベッカ」が思い浮かぶが、エリは物語後半には不在であることによって物語の中でミステリアスな存在になる。
その中から微妙な人間関係が浮かび上がってくる。
女性が置かれている状況についても、やはり西洋とは違う部分があることも分かってくる。
謎が少しずつ明かされていくが、物語が終わっても謎が完全に説き明かされることはない。
不思議な余韻を持って映画は終わる。

全体としてとても洗練された語り口の映画だ。
前半のエリが凧を揚げるシーンの開放感と、後半のサスペンスの対比。
エリと対比的に描かれるセピデーというもう一人の女性の複雑な感情の動き。
群像をつぶさに観察するカメラワーク。

監督のアスガー・ファルディーは本邦初公開ということだが、若手ながらイランでは評価の高い監督らしい。
ぜひ他の映画も観てみたいし、他のイラン映画も観てみたくなった。

ところで、前半でエリたちがジェスチャーゲームをするシーンがあるんだけど、エリのジェスチャーの解答が「みなしごハッチ」だった。
イランでも有名なのかな。
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